「ゲージツ家のクマさん」の愛称で親しまれた篠原勝之(しのはら・かつゆき)さん。テレビ番組で見せた豪快な話しぶりやスキンヘッドの風貌で知られる一方、実際には舞台美術家、鉄の造形作家、絵本作家、エッセイスト、小説家という複数の顔を持つ表現者でした。唐十郎率いる状況劇場のポスターや舞台美術を手がけ、スクラップ鉄を使った大型オブジェを国内外で制作。さらに『走れUMI』で小学館児童出版文化賞、『骨風』で泉鏡花文学賞を受賞しています。
2026年4月17日、篠原さんは肺炎のため奈良市内の病院で84歳で亡くなりました。訃報が公表されたのは同月25日です。亡くなる直前まで続けていた陶芸や書画、2025年の個展、2026年3月の対談、そして11月の作品展などをたどると、最後まで創作への意欲を失わなかった姿が浮かび上がります。ここでは本人の公式プロフィール、自治体の文化資料、出版社の書誌情報、関係者による発表、報道をもとに、その人生と作品を整理します。
【くまさん芸術家の正体】篠原勝之とは何者だったのか

「くまさん芸術家」という検索語で探されている人物は、北海道札幌市生まれの美術家・篠原勝之さんです。一般には「ゲージツ家のクマさん」という愛称で広く知られ、作品や活動では「KUMA」という名前も使用していました。
篠原さんは、一般的な芸術家という肩書にとらわれず、自分の活動を「ゲージツ」と表現していました。鉄を溶接して巨大な造形物を生み出す一方、絵本や小説を書き、テレビ番組にも出演。ジャンルを横断する自由な活動スタイルが特徴でした。
とりわけテレビでは、頭をそり上げた独特の風貌と、飾らない豪快な語り口で注目を集めました。タモリさんが司会を務めた『笑っていいとも!』や、ビートたけしさんが出演する番組などへの登場を通じて、芸術に詳しくない視聴者にも名前が知られるようになりました。
テレビタレントだけでは語れない創作活動篠原さんの知名度を押し上げたのはテレビでしたが、その活動の中心にあったのは、あくまでも自分の手で物を作ることでした。
状況劇場のポスターや舞台美術、鉄のオブジェ、ガラス作品、石を使った造形、絵本、児童文学、小説、陶芸まで、その表現領域は非常に広いものです。
特に注目したいのは、作品の素材を固定しなかったことです。鉄を中心に制作していた時代を経て、晩年には土を手で捏ね、器を作るようになりました。ひとつの作風に安住せず、年齢や環境の変化に応じて表現そのものを変えていった人物だったのです。
【篠原勝之のプロフィールと経歴】状況劇場から鉄のゲージツ家へ
札幌生まれ、鉄の街・室蘭で育つ篠原勝之さんは1942年、北海道札幌市生まれ。少年時代を鉄鋼業で知られる室蘭市で過ごしました。
本人の公式サイト「KUMA'S FACTORY」によると、高校卒業前に家を出て上京。武蔵野美術大学に進学したものの中退し、グラフィックデザイナーとして広告制作会社に勤務しました。
会社勤めを辞めた後は、日雇いの仕事をしながら挿絵画家や絵本作家として活動。1967年ごろから絵本の制作にも取り組み、イラストレーションや出版の世界で経験を積んでいきます。
唐十郎の状況劇場で舞台美術を担当篠原さんの経歴を語るうえで欠かせないのが、劇作家・唐十郎さんが主宰した状況劇場との関係です。
1973年から1979年まで、状況劇場のポスターと舞台美術を担当。当時のアングラ演劇は、既存の演劇空間や社会的な常識に挑戦する表現活動として独自の存在感を持っていました。
その世界で篠原さんは、舞台を構成する美術だけでなく、公演のイメージを観客に伝えるポスター制作にも携わりました。
刈谷市美術館の収蔵作品データベースには、1973年制作の「海の牙 黒髪海峡篇」、1974年の「唐十郎版 風の又三郎」、1976年の「下町ホフマン」、1977年の「唐十郎版 俳優修業」、1979年の「青頭巾」など、篠原さんが作者となった状況劇場のポスターが登録されています。
これらは、篠原さんの仕事が単なるテレビ出演者としての活動ではなく、演劇史やグラフィックデザインの分野にもつながっていることを示す資料です。
1981年『人生はデーヤモンド』で注目1981年にはエッセイ『人生はデーヤモンド』を刊行。独特の言葉遣いと自由な人生観が注目され、篠原さんの名前が広く知られるきっかけになりました。
2026年3月8日に公開された「ほぼ日」の糸井重里さん、南伸坊さんとの対談では、この本のタイトルを糸井さんが考えたことも本人の口から語られています。
1982年ごろからはテレビタレントとしても活動。芸術家としての活動とテレビでの存在感が並行する時期を迎えました。
1985年、スクラップ鉄との出会い篠原さんの人生を大きく変えたのが、1985年に都心のビル解体現場で目にした鉄の姿でした。
瓦礫の中から露出した鉄の有機的な形に衝撃を受け、スクラップ鉄を素材にした造形作品の制作を本格化。自ら「鉄のゲージツ家」を名乗るようになります。
1986年にはKUMA'S FACTORYを設立。1995年には山梨県北杜市にキューポラ炉を備えた作業場を構え、鉄やガラスなどを扱う制作環境を整えました。
この時期から国内だけでなく、モンゴルの草原やサハラ砂漠など、自然環境の異なる場所でも作品を制作。美術館の展示空間に限らない、土地と結びついた大規模な造形活動を展開しました。
【篠原勝之の経歴・代表作と関係者】年表で見る創作の転換点
篠原さんの歩みは、演劇美術から鉄の造形、文学、陶芸へと続く変化の連続でした。主な人物・作品・出来事の関係を時系列で整理します。
| 時期 | 人物・作品・出来事 | 関係と実績 |
|---|---|---|
| 1942年 | 札幌市で誕生 | 室蘭市で少年時代を過ごす。 |
| 1960~1963年 | 武蔵野美術大学 | 上京して進学。1963年に中退。 |
| 1967年ごろ | 絵本・挿絵 | 絵本作家、挿絵画家として活動。 |
| 1973~1979年 | 唐十郎・状況劇場 | 公演ポスターと舞台美術を担当。 |
| 1981年 | 『人生はデーヤモンド』 | エッセイ刊行。糸井重里がタイトルを考案。 |
| 1985~1986年 | 鉄のゲージツ家・KUMA'S FACTORY | スクラップ鉄による制作を本格化。1986年に工房を設立。 |
| 1993年 | 『SKY SEED』 | 千葉ポートスクエアに設置された鉄の大型作品。 |
| 2005年 | 『宙にかぶく』 | 金丸座の旧鉄柱と庵治石を組み合わせたオブジェ。 |
| 2009年 | 『走れUMI』 | 第58回小学館児童出版文化賞を受賞。 |
| 2015年 | 『骨風』 | 第43回泉鏡花文学賞を受賞。 |
| 2019年 | 陶芸作品『空っぽ』 | 手捏ねによる土の器の制作を開始。 |
| 2021年 | 奈良へ移住 | 鉄から土へと制作の中心を移した晩年の活動拠点。 |
| 2025年 | 個展『泡沫(うたかた)』 | 京都場で陶芸や書画などを発表。 |
| 2026年3月 | ほぼ日での対談 | 糸井重里、南伸坊と奈良での暮らしや人生について語る。 |
| 2026年4月17日 | 篠原勝之さん死去 | 肺炎のため奈良市内の病院で84歳で逝去。 |
この年表で特に注目したいのは、1985年の鉄との出会いと、2019年の土との出会いです。どちらも、それまでの創作環境を大きく変える出来事でした。
また、糸井重里さんや南伸坊さんとの交流は、篠原さんの文筆活動を理解する手がかりになります。唐十郎さんとの演劇美術の仕事が初期の重要な接点だったのに対し、糸井さんたちとの交流は、エッセイや日常の言葉を通じた表現者同士の関係を示しています。
【篠原勝之の代表作】鉄のオブジェから『骨風』まで
鉄の大型造形作品『SKY SEED』『風弦』『うつろう』篠原さんの美術家としての代表的な仕事は、スクラップ鉄を利用した大型の立体作品です。
本人の公式サイトに掲載された常設作品の記録からは、次のような作品を確認できます。
- 『SKY SEED』(1993年):千葉市のポートスクエアに設置された鉄の作品。
- 『風弦』(1994年):山梨県北杜市の大武川砂防公園に設置された鉄の作品。
- 『うつろう』(1996年):高知県の土佐西南大規模公園に設置された鉄とガラスの作品。
- 『風の樹』(1998年):ニジェールのサハラ砂漠テネレ地区に制作された鉄とガラスの作品。
- 『飛来』(1999年):千葉県市原市の市原湖畔美術館に設置された鉄とガラスの作品。
これらの作品に共通するのは、素材の重さや大きさだけを見せるのではなく、風や光、周囲の自然との関係を造形に取り込んでいる点です。
鉄は硬く、重量があり、加工には大きな力が必要です。しかし、屋外に置かれた鉄は雨や風にさらされ、時間の経過とともに錆びていきます。篠原さんは、そうした素材の変化も創作の一部として受け止めていました。
香川県とのつながり『宙にかぶく』篠原さんの作品を語るうえで、香川県琴平町の旧金毘羅大芝居、通称・金丸座に関連する作品も重要です。
2005年、金丸座の大改修で不要になった鉄の柱を再利用し、高松市庵治町の庵治石と組み合わせたオブジェを制作しました。作品名は『宙にかぶく』。同年に序幕式が行われ、金丸座近くに展示されています。
KSB瀬戸内海放送の報道では、篠原さんが2000年ごろから庵治石を使った作品を制作していたことも紹介されています。
この作品の面白さは、役目を終えた建築部材を新しい芸術作品として再生させた点です。鉄の柱には芝居小屋の歴史が刻まれています。それを石と組み合わせることで、土地の文化や建物の記憶を残す造形へと変えました。
単に鉄を加工するだけでなく、素材が持つ過去や場所の歴史まで作品に取り込む。篠原さんの制作姿勢を理解するうえで象徴的な仕事です。
児童文学の受賞作『走れUMI』篠原さんは美術だけでなく、児童文学の分野でも高い評価を受けています。
2008年に講談社から刊行された『走れUMI』は、2009年度の第58回小学館児童出版文化賞を受賞しました。
物語の主人公は、母親の実家があるミカン山で暮らす少年です。ある夏、父親や祖父、後ろ足を失った犬のコロがいる故郷を目指し、相棒であるマウンテンバイク「UMI」に乗って旅に出ます。
講談社の作品紹介によると、捕鯨で栄えた小さな港町を背景に、故郷や家族とのつながりを描いた児童小説です。
鉄を使った巨大な作品のイメージが強い篠原さんですが、子どもの成長や家族の記憶を扱う物語を書いていたことは、作家としての幅広さを示しています。
泉鏡花文学賞を受賞した『骨風』文学作品の代表格として挙げられるのが、2015年に文藝春秋から刊行された『骨風(こっぷう)』です。
同作は第43回泉鏡花文学賞を受賞。泉鏡花文学賞の公式受賞作品一覧にも、篠原勝之『骨風』が2015年の受賞作として記録されています。
文藝春秋の紹介によれば、本書は全8作からなる作品集です。17歳で家を出た少年時代、家族、室蘭での暮らし、鉄の制作、山での生活、老いと生死など、篠原さん自身の人生と重なる題材が登場します。
タイトルの『骨風』という言葉にも象徴されるように、作品には人間の身体や記憶、時間の経過を見つめる視点があります。
美術作品では鉄やガラスといった物質を通して生命や自然を表現してきた篠原さんですが、文学では言葉を通じて同じようなテーマに向き合っていたと考えられます。
その他の著作と作品篠原さんの公式作品一覧には、次のような著作も掲載されています。
- 『人生はデーヤモンド』(1981年)
- 『蔓草のコクピット』(2001年)
- 『A(アンペア)』(2011年)
- 『カミサマ』(2012年)
- 『戯れの魔王』(2018年)
作品を選ぶなら、造形作家としての篠原さんを知りたい人には鉄の常設作品、文学的な表現を知りたい人には『骨風』、児童文学から入りたい人には『走れUMI』が適しています。
【晩年の創作活動】鉄を離れて土へ、奈良で迎えた新しい時代
2019年から始まった陶芸作品『空っぽ』篠原さんの晩年を理解するうえで見逃せないのが、陶芸への転換です。
本人の公式サイトによると、2019年から手捏ねによる器『空っぽ』の制作を開始しました。鉄を扱っていた作業場を手放し、庭の蓮池を埋め戻した後、そこにあった土を手で捏ねたことが新しい創作の始まりだったと記されています。
この変化は、単なる趣味の追加ではありませんでした。
京都場で2025年に開催された個展『泡沫(うたかた)|篠原勝之展』の作家コメントでは、脳梗塞から生還した後の生活と、鉄の時代から土の時代への移行が本人の言葉で語られています。
鉄は硬く、重く、明確な輪郭を持つ素材です。一方、土は柔らかく、手の動きによって形を変えられます。篠原さんは、その違いを自分自身の感覚の変化と重ねていました。
同展の説明によると、手捏ねで作った器を約1240度の火力で焼成する作品も制作。土の中に空間を作り、器として形にする行為を続けていました。
2021年に奈良へ移住篠原さんは2021年に奈良へ移住しました。
長く山梨県北杜市を制作拠点としてきた篠原さんにとって、奈良への移住は生活環境の大きな変化でした。鉄を中心とした大型造形から、土を捏ねる小さな器や書画へと、作品の規模や素材にも変化が見られます。
2025年10月4日から12月7日まで京都場で開催された個展『泡沫』では、陶芸や書画などが紹介されました。鉄の大型作品で知られた作家が、晩年にどのような表現へ向かっていたのかを知る貴重な機会となりました。
2026年3月、糸井重里・南伸坊との対談亡くなる約6週間前にあたる2026年3月8日には、ウェブメディア「ほぼ日」で糸井重里さん、南伸坊さんとの対談が公開されました。
記事のテーマには、奈良での暮らしや長年の交友関係、過去の仕事、老いと死などが含まれています。
篠原さんは『人生はデーヤモンド』のタイトルを糸井さんが考えてくれたことを振り返り、当時の交流を懐かしそうに語っていました。
この対談は、晩年の篠原さんを知るうえで重要な記録です。鉄の作品を制作していた過去だけでなく、長年の友人たちと語り合う姿から、表現者としての人間的な側面も伝わってきます。
2026年11月、東大寺観音院で作品展2026年10月5日には、社会福祉法人東大寺福祉療育病院が、篠原さんの作品展開催を発表しました。
会場は東大寺観音院、会期は2026年11月1日から11月8日まで。11月4日現在、開催期間中です。
同院の案内によると、展示作品の売り上げの一部は東大寺福祉療育病院へ寄付されます。
亡くなった後も作品が展示され、新たな鑑賞者との出会いが続いていることは、篠原さんが残した創作活動の広がりを示しています。
【2026年4月17日の訃報】篠原勝之の死因と最期のメッセージ
死因は肺炎、84歳で逝去篠原勝之さんは2026年4月17日、肺炎のため奈良市内の病院で亡くなりました。84歳でした。
訃報が公表されたのは4月25日です。本人のInstagramに関係者から報告が投稿され、その後、TBS NEWS DIG、日刊スポーツ、共同通信などが報じました。
発表によると、本人の遺志により通夜や葬儀は行われず、4月20日に近親者で見送られました。
ここで整理しておきたいのが、死因と過去の病気の違いです。2025年の個展に掲載された本人の文章には、脳梗塞から生還した経験が記されています。一方、2026年4月の訃報で死因として報じられたのは肺炎です。脳梗塞と今回の死因を混同しないことが大切です。
亡くなる日の朝に託した最後の言葉訃報とともに注目されたのが、篠原さんが亡くなる日の朝に近親者へ口頭で託したというメッセージでした。
関係者による発表では、本人の言葉として次のメッセージが紹介されています。
「いっぱい感謝して、旅にいきます。アバヨ。」
また、関係者は篠原さんについて、どのような状況でも目の前の出来事を面白がり、残された力を出し切ろうとしていたと伝えています。
本人が晩年に好んで使っていた言葉は「離陸」だったといいます。最期を単なる別れではなく、旅立ちとして表現した点にも、独自の人生観が表れています。
2026年4月25日に発表された訃報の経緯訃報をめぐる日付を整理すると、次のようになります。
- 4月17日:肺炎のため奈良市内の病院で逝去。
- 4月20日:本人の遺志に従い、近親者で見送り。
- 4月25日:本人のInstagramを通じて関係者が訃報とメッセージを公表。
- 4月25日以降:テレビ局、新聞社、通信社などが訃報を報道。
つまり、4月17日は亡くなった日であり、4月25日は訃報が広く公表された日です。この2つの日付を混同しないようにしましょう。
【プロの結論】篠原勝之の芸術が今も評価される理由
ひとつの肩書では説明できない表現者篠原勝之さんのキャリアを振り返ると、単純に「鉄のゲージツ家」とだけ紹介するのでは、活動の全体像を捉えきれないことが分かります。
演劇美術では唐十郎の状況劇場と関わり、グラフィックデザインや絵本では視覚的な表現を追求。鉄の作品では物質と自然の関係を探り、文学では家族や生死、記憶を言葉にしました。
これらは別々の仕事に見えますが、根底には、既存の枠組みにとらわれず、自分の感覚を信じて形にするという共通した姿勢があります。
鉄から土への変化は、創作の終わりではなかった特に重要なのは、晩年の陶芸への転換です。
大型の鉄の作品を作る作家が、土を手で捏ねて小さな器を作るようになったことは、外見上は大きな方向転換に見えます。しかし、素材と向き合い、手を動かし、偶然生まれる形を受け入れるという制作の根本は変わっていません。
鉄の作品が錆び、老朽化して撤去されることもありました。本人も2025年の作家コメントで、永遠に存在するものはないという考えを記しています。
この視点から見ると、土への転換は過去の作品を否定したものではなく、素材の変化や自分自身の身体の変化を受け入れた、新しい創作の段階だったと考えられます。
篠原勝之の作品に触れるなら、どこを見るべきか篠原さんの作品に初めて触れる人には、次の3つの視点をおすすめします。
- 造形を知りたい人:『SKY SEED』『風弦』『うつろう』などの屋外作品を確認し、鉄と自然の関係に注目する。
- 作家としての人生を知りたい人:エッセイ『人生はデーヤモンド』や小説『骨風』を読む。
- 晩年の表現を知りたい人:陶芸作品『空っぽ』や個展『泡沫』に関する記録を見る。
ひとつの作品だけで篠原さんを理解しようとするより、時代ごとの素材や表現の違いを比較すると、その創作の本質が見えてきます。
【くまさん芸術家・篠原勝之に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:くまさん芸術家とは誰のことですか?
A1:美術家・篠原勝之さんのことです。「ゲージツ家のクマさん」という愛称で親しまれ、KUMA名義でも活動していました。鉄の大型オブジェや状況劇場の舞台美術、文学作品などで知られています。
Q2:篠原勝之さんはいつ亡くなりましたか?
A2:2026年4月17日です。肺炎のため奈良市内の病院で亡くなり、84歳でした。訃報は4月25日に関係者から公表されました。
Q3:篠原勝之さんの死因は何ですか?
A3:報道によると肺炎です。過去には脳梗塞からの回復について本人が個展の作家コメントで触れていますが、2026年4月の訃報で報じられた死因は肺炎です。
Q4:篠原勝之さんの代表作は何ですか?
A4:美術作品では『SKY SEED』『風弦』『うつろう』などの鉄やガラスを使った造形作品が挙げられます。文学作品では『走れUMI』『骨風』『人生はデーヤモンド』などが代表的です。
Q5:篠原勝之さんはどのような賞を受賞しましたか?
A5:2009年に『走れUMI』で第58回小学館児童出版文化賞、2015年に『骨風』で第43回泉鏡花文学賞を受賞しました。美術家としてだけでなく、文学の分野でも高く評価されています。
Q6:篠原勝之さんは晩年、何を制作していましたか?
A6:2019年から土を手で捏ねて作る器『空っぽ』の制作を始めました。2021年に奈良へ移住し、陶芸や書画などに取り組みました。2025年には京都場で個展『泡沫』を開催しています。
Q7:2026年に篠原勝之さんの作品を見る機会はありますか?
A7:2026年11月1日から8日まで、奈良市の東大寺観音院で作品展が開催されています。展示作品の売り上げの一部は東大寺福祉療育病院に寄付される予定です。
篠原勝之さんは、テレビで親しまれた「ゲージツ家のクマさん」であると同時に、演劇美術、鉄の造形、絵本、児童文学、小説、陶芸まで手がけた多才な表現者でした。
1970年代には唐十郎の状況劇場でポスターや舞台美術を担当。1985年以降はスクラップ鉄を使った大型作品を制作し、「鉄のゲージツ家」として独自の地位を築きました。さらに『走れUMI』で小学館児童出版文化賞、『骨風』で泉鏡花文学賞を受賞し、文学の世界でも確かな実績を残しています。
2026年4月17日に肺炎のため84歳で亡くなりましたが、その直前まで奈良で創作を続けていました。鉄から土へと素材を変えた晩年の活動は、年齢や病気による変化を受け入れながら、最後まで表現を追求した姿を伝えています。
篠原勝之という人物を知るうえで大切なのは、テレビで見せた豪快なキャラクターだけに注目しないことです。鉄のオブジェを見て、文学作品を読み、晩年の陶芸に触れることで、初めて「ゲージツ家のクマさん」の全体像が見えてきます。
作品が残る場所や、今後開催される追悼展示、作品展を通じて、その独創的な表現が次の世代へ受け継がれていくことが期待されます。
主な確認資料: KUMA'S FACTORY公式プロフィール・作品一覧、刈谷市美術館収蔵作品データベース、金沢市の泉鏡花文学賞受賞者一覧、小学館児童出版文化賞公式記録、講談社・文藝春秋の書籍情報、京都場の展覧会記録、ほぼ日、TBS NEWS DIG、共同通信、東大寺福祉療育病院の2026年10月発表。