若嶋津さんが亡くなったのは、2026年3月15日午前です。スポーツニッポンの報道によると、午前11時34分、千葉県鎌ケ谷市内の病院で肺炎のため息を引き取りました。
妻のみづえさんによると、若嶋津さんは2025年夏ごろから体調を崩し、千葉県内の病院に入院。その後は療養を続けていました。亡くなる15日の朝まで意識があり、周囲に感謝の言葉を伝えていたと報じられています。
本名は日高六男、若嶋津六夫との違いは?若嶋津さんの本名は日高六男(ひだか・むつお)です。
日本相撲協会の公式プロフィールでは、四股名を若嶋津六夫、生年月日を1957年1月12日、出身地を鹿児島県熊毛郡中種子町と記載しています。
四股名と本名で漢字が異なるため、訃報を検索する際には「若嶋津六夫」と「日高六男」の両方が使われています。
2017年の転倒事故と肺炎は関係している?ここは誤解しやすいポイントです。
2017年10月、若嶋津さんは千葉県船橋市内の路上で倒れているところを発見され、病院に搬送されました。頭部の緊急手術を受け、一時は意識不明の状態となりました。
その後、長期間のリハビリ生活に入りましたが、2026年3月の訃報で発表された死因は肺炎です。
2017年の転倒事故が直接の死因だったという発表はありません。 事故後の療養生活と、最終的な死因である肺炎は分けて理解する必要があります。
【現役時代】南海の黒豹と呼ばれた若嶋津の大関昇進と幕内優勝2回

大相撲の人気を支えた1980年代の名大関
若嶋津さんは、単に大関まで昇進した力士ではありません。小柄で軽量ながら、俊敏な動きと力強い攻めを武器に大型力士と渡り合い、独自の存在感を築きました。
その人気を象徴する呼び名が「南海の黒豹」です。
鹿児島県・種子島から二子山部屋へ1957年1月12日、鹿児島県熊毛郡中種子町(種子島)に生まれた若嶋津さん。
鹿児島商工高校(現・樟南高校)で相撲を始め、高校卒業後の1975年春場所、元横綱初代若乃花が師匠を務める二子山部屋に入門しました。
入門後は着実に番付を上げ、1980年春場所で新十両、1981年初場所で新入幕を果たします。
そして1983年初場所、念願の大関に昇進しました。
1984年に達成した2度の幕内優勝若嶋津さんの競技人生を語るうえで欠かせないのが、1984年の活躍です。
- 1984年春場所: 14勝1敗で初優勝。
- 1984年名古屋場所: 15戦全勝で2度目の優勝。
特に名古屋場所での全勝優勝は、圧倒的な実力を示した大きな実績でした。
当時の若嶋津さんは、精悍な顔立ち、浅黒い肌、軽快な動きでも注目されていました。こうした特徴から「南海の黒豹」という愛称が定着し、相撲ファン以外にも知られる存在になりました。
若嶋津の主な経歴・戦績一覧日本相撲協会の公式プロフィールと2026年の訃報報道をもとに、主な経歴を整理します。
出典:日本相撲協会公式プロフィール、日刊スポーツ、共同通信など。
通算成績515勝、三賞5回という実績若嶋津さんの現役時代の通算成績は次のとおりです。
| 項目 | 記録 |
|---|---|
| 生涯戦歴 | 515勝330敗21休 |
| 幕内優勝 | 2回 |
| 十両優勝 | 1回 |
| 敢闘賞 | 2回 |
| 技能賞 | 3回 |
| 金星 | 2個 |
| 大関在位 | 28場所 |
金星は、いずれも横綱・北の湖から獲得したものです。
また、得意技は左四つ、上手投げ、吊り。日本相撲協会の記録にも残るように、組んでからの攻めと俊敏な動きが持ち味でした。
【2017年の転倒事故】頭部手術から療養生活へ、9年間の経緯
若嶋津さんの人生における大きな転換点となったのが、2017年10月の転倒事故です。
2017年10月19日に船橋市内で倒れる2017年10月19日、千葉県船橋市内の路上で、自転車とともに倒れている若嶋津さんが発見されました。
病院に緊急搬送され、頭部の手術を受けました。報道によると、手術は約4時間半に及び、一時は意識不明の状態となりました。
翌20日には妻のみづえさんが病院を訪れ、手術後の状況について報道陣に対応しました。
手術後はリハビリ生活へ当時の報道では、頭部手術後に少しずつ反応が見られるようになったことが伝えられています。
しかし、事故以前のように親方として相撲部屋の運営や協会業務を続けることは難しくなりました。
2017年の理事選への出馬も見送られ、その後は療養とリハビリを続ける生活となりました。
長年にわたって相撲界の第一線で活動してきた人物にとって、大きな生活の変化だったことは間違いありません。
2021年以降の部屋継承と協会退職若嶋津さんは2021年12月、二所ノ関部屋の師匠を退任し、元関脇玉乃島の放駒親方に部屋を継承しました。
2022年1月11日には日本相撲協会の定年を迎え、その後は参与として協会に残りましたが、2023年7月21日付で退職しています。
そして2025年夏ごろから再び体調を崩し、入院・施設での療養生活を続けていたと報じられました。
2017年の事故から約9年。長い療養生活の末、2026年3月15日に亡くなりました。
【妻・高田みづえ】元アイドル歌手との結婚と夫婦の歩み
若嶋津さんの人生を振り返るとき、妻である高田みづえさんの存在も欠かせません。
みづえさんは1970年代後半から1980年代にかけて活躍した元人気歌手。若嶋津さんと同じ鹿児島県出身で、歌手としてのキャリアを持つ人物でした。
1985年に高田みづえさんと結婚2人は1985年2月に婚約を発表しました。
同年9月27日、東京都内のホテルニューオータニで結婚式と披露宴を行っています。
当時の若嶋津さんは大関として人気を集め、高田さんも歌手として知名度が高かったため、2人の結婚は大きな話題になりました。披露宴はテレビ中継され、多くの視聴者が注目しました。
結婚を機に芸能界を引退、相撲部屋のおかみさんに高田みづえさんは結婚を機に芸能界を引退しました。
その後は若嶋津さんの妻として、相撲部屋のおかみさんを務めるようになります。
1990年に松ケ根部屋が創設されると、部屋の運営を支え、弟子たちの日常生活にも関わる立場となりました。
スポーツ総合誌「Number」の2022年の特集記事では、高田さんが約32年間にわたっておかみさんを務めた歩みが紹介されています。
華やかな芸能界から相撲界の裏方へと生活の軸を移したことは、2人の人生における大きな転換でした。
2017年の事故でも夫を支え続けた2017年10月の転倒事故の際にも、高田さんは病院に駆けつけ、夫の手術を見守りました。
その後の療養生活でも、長く夫を支え続けてきました。
2026年3月15日の訃報を受け、スポーツニッポンの取材に対して、高田さんは次のように感謝を語っています。
親方には「ありがとう」という気持ちです。
出典:2026年3月16日付スポーツニッポン。
また、3月24日の葬儀では喪主を務め、夫について「俺は相撲しか知らない。相撲人生だった」と話していたことを明かしました。
夫婦の歩みは、現役力士と歌手の結婚という華やかな話題だけではありません。相撲部屋を支え、事故後の療養生活をともに歩んだ長い年月も、2人の人生を語る大切な要素です。
【引退後の功績】松ケ根部屋創設と日本相撲協会理事としての活動
若嶋津さんの功績は、現役時代の優勝記録だけではありません。
引退後は指導者として相撲界に残り、部屋の創設や協会運営、若手力士の育成に取り組みました。
1990年に松ケ根部屋を創設1987年7月の名古屋場所で現役を引退した若嶋津さんは、年寄「松ケ根」を襲名しました。
二子山部屋で後進の指導にあたった後、1990年2月に独立。松ケ根部屋を創設しました。
独立当初から弟子を育て、部屋の運営を続けていくことは、現役力士として土俵に上がることとは異なる責任を伴います。
妻のみづえさんもおかみさんとして部屋を支え、夫婦で力士の育成に取り組みました。
2014年に二所ノ関を襲名、日本相撲協会理事に2014年4月、日本相撲協会の理事に就任。
同年12月には年寄「二所ノ関」を襲名し、部屋の名称も二所ノ関部屋に変更しました。
2016年からは審判部長も務め、協会運営の重要な役割を担いました。
この時期は、現役時代の実績を生かしながら、相撲界全体を支える立場へと活動の幅を広げた時期でした。
松鳳山、一山本、島津海ら7人の関取を育成指導者としての実績も見逃せません。
報道によると、若嶋津さんは師匠として小結・松鳳山ら7人の関取を育てました。
主な弟子として知られるのが次の力士です。
- 松鳳山:小結まで昇進した力士。
- 一山本:幕内で活躍した力士。
- 島津海:同じ種子島出身の力士。
特に島津海は、若嶋津さんと同じ故郷を持つ弟子としても知られています。
2026年3月の訃報後には、師匠をしのぶ力士たちの姿も報じられました。
現在の二所ノ関親方との混同に注意ここで注意したいのが、二所ノ関親方という呼称です。
若嶋津さんは2014年に年寄「二所ノ関」を襲名しましたが、2021年に部屋を継承し、2023年には日本相撲協会を退職しています。
現在の二所ノ関親方は、元横綱・稀勢の里です。
つまり、ニュースで使われる「二所ノ関親方」という肩書だけでは、若嶋津さんと現在の親方を混同する可能性があります。
若嶋津さんについて調べる場合は、元二所ノ関親方という表記が正確です。
【通夜・葬儀】2026年3月23日に通夜、24日に告別式
若嶋津さんの通夜と葬儀は、2026年3月に千葉県市川市で営まれました。
日本相撲協会の発表を受けて報じられた日程は次のとおりです。
| 項目 | 日時・内容 |
|---|---|
| 死去 | 2026年3月15日 |
| 通夜 | 3月23日午後6時 |
| 葬儀・告別式 | 3月24日午前10時 |
| 会場 | 昭和セレモニー シティホール市川 |
| 喪主 | 妻・日高みづえさん |
3月23日に営まれた通夜には、約400人が参列しました。
元横綱若乃花の花田虎上さん、現役の二所ノ関親方(元横綱稀勢の里)、湊川親方(元大関貴景勝)、横綱大の里ら、相撲界の関係者が故人をしのびました。
祭壇には土俵や軍配をあしらった装飾が施され、2021年に撮影された笑顔の遺影が飾られたと報じられています。
葬儀では妻のみづえさんが夫への思いを語る3月24日の葬儀・告別式には約300人が参列しました。
喪主を務めた高田みづえさんは、涙ながらに夫の人生を振り返り、次のように語ったと報じられています。
「俺は相撲しか知らない。相撲人生だった」とずっと言っておりました。
出典:2026年3月24日付デイリースポーツ。
また、元大関琴風の中山浩一さんは弔辞を読み、若嶋津さんとの長年の友情をしのびました。
出棺時には沿道に集まった人々から「若嶋津」の声と拍手が送られました。
「南海の黒豹」と呼ばれた人気力士は、土俵だけでなく、相撲界の仲間や後進、そして家族に見送られて旅立ちました。
【プロの結論】若嶋津六夫さんが相撲界に残した本当の功績
若嶋津さんの生涯を評価するうえで、注目すべきなのは現役時代と引退後の両方に確かな実績を残したことです。
第一に、現役時代の実績です。
大関として幕内優勝2回、通算515勝。小柄な体格を生かした俊敏な相撲は、1980年代の大相撲において強い印象を残しました。
第二に、指導者としての実績です。
松ケ根部屋を創設し、二所ノ関部屋を率い、7人の関取を育成しました。現役時代の人気や実績を、自分自身の評価だけで終わらせず、次世代の力士育成につなげたことは大きな功績です。
第三に、長年にわたる相撲界への貢献です。
協会理事や審判部長を務め、土俵の内側だけでなく、相撲界全体を支える役割も担いました。
そして、2017年の事故後も療養を続け、2023年まで協会に籍を置いていました。
若嶋津さんの歩みから見えてくるのは、力士の評価は優勝回数や番付だけで決まるものではないということです。
土俵での実績、後進の育成、相撲界への貢献。この3つがそろってこそ、長く記憶される親方の功績になります。
若嶋津さんは、その3つを残した人物でした。
若嶋津六夫さんの死去に関するよくある質問(FAQ)
Q1:若嶋津六夫さんはいつ亡くなりましたか?
A1:2026年3月15日です。千葉県内の病院で肺炎のため亡くなりました。享年69歳でした。
Q2:若嶋津六夫さんの本名と死因は何ですか?
A2:本名は日高六男(ひだか・むつお)さんです。死因は肺炎と発表されています。
Q3:若嶋津六夫さんの妻は誰ですか?
A3:妻は元人気歌手の高田みづえさんです。1985年に結婚し、芸能界を引退した高田さんは、その後、相撲部屋のおかみさんとして夫を支えました。
Q4:若嶋津六夫さんの現役時代の最高位は何ですか?
A4:最高位は大関です。1983年初場所で大関に昇進し、1984年に幕内優勝2回を記録しました。
Q5:若嶋津六夫さんの2017年の事故は何があったのですか?
A5:2017年10月、千葉県船橋市内の路上で倒れているところを発見され、頭部の緊急手術を受けました。一時意識不明となりましたが、その後は療養とリハビリを続けました。
Q6:若嶋津六夫さんは親方として何をしましたか?
A6:1990年に松ケ根部屋を創設し、2014年に二所ノ関を襲名。日本相撲協会の理事や審判部長を務め、松鳳山や一山本らを含む7人の関取を育てました。
Q7:若嶋津六夫さんの通夜と葬儀はいつ行われましたか?
A7:通夜は2026年3月23日午後6時、葬儀・告別式は3月24日午前10時から、千葉県市川市の昭和セレモニー シティホール市川で営まれました。
元大関・若嶋津六夫さんは、2026年3月15日、肺炎のため69歳で亡くなりました。
本名は日高六男さん。1980年代には「南海の黒豹」と呼ばれ、大関として幕内優勝2回を達成しました。
引退後は松ケ根部屋を創設し、二所ノ関親方として日本相撲協会の理事も歴任。後進の育成にも力を注ぎ、7人の関取を育てました。
2017年の転倒事故と長い療養生活を経て、最期まで相撲と関わり続けた人生でした。
妻の高田みづえさんとともに歩んだ年月、そして弟子たちに受け継がれた指導者としての足跡は、これからも大相撲の歴史に刻まれていくはずです。
昭和の人気大関として、そして多くの力士を育てた親方として、若嶋津六夫さんの功績を心に刻みたいと思います。