柔道家・古賀稔彦さんは、1992年バルセロナオリンピックの男子71kg級で金メダル、1996年アトランタオリンピックの男子78kg級で銀メダルを獲得した、日本柔道史を代表する選手です。小柄な体格から繰り出す豪快な一本背負投と、常に一本勝ちを狙う攻撃的な柔道によって「平成の三四郎」と呼ばれました。
2021年3月24日に53歳で逝去した古賀さんですが、その功績は2026年現在も色あせていません。五輪直前の左膝の大けがを乗り越えた金メダル、世界選手権での3度の優勝、引退後の古賀塾での育成、そしてアテネ五輪金メダリスト・谷本歩実さんを育てた指導者としての実績など、その生涯には多くの物語があります。
【2026年最新】古賀稔彦の現在は?2021年の逝去と今も続く功績

最初に押さえておきたいのは、古賀稔彦さんは現在も活動している柔道家ではないということです。2021年3月24日、神奈川県川崎市の自宅道場で亡くなりました。享年53歳でした。
全日本柔道連盟は同日、古賀さんの逝去を公式に発表しています。柔道界にとって大きな損失となり、バルセロナ五輪での金メダルや、後進の育成に尽くした功績が改めて伝えられました。
2026年も受け継がれる古賀塾の活動一方、古賀さんが残した教育と柔道指導の理念は、現在も古賀塾の活動に引き継がれています。
古賀塾の公式サイトでは、2026年にも稽古に関する案内が掲載されています。2026年10月28日付のお知らせでは、同年11月29日の稽古予定を案内。小学生から中学生、高校生、大学生、一般までを対象とする活動が紹介されています。
また、2026年1月には「古賀稔彦の柔道教室 一本柔道」のリマスター版の動画配信開始も告知されました。競技者としての古賀さんの技術や考え方を、後世に伝える取り組みです。
つまり、2026年現在の古賀稔彦さんに関する最新情報は、本人の新たな活動ではなく、古賀塾による指導の継承や映像資料を通じた功績の再評価にあります。
【生い立ち・経歴】古賀稔彦はどんな人物?講道学舎から日本体育大学へ
古賀稔彦さんは1967年11月21日生まれ。佐賀県出身として広く知られていますが、本人の公式プロフィールでは福岡県出生・佐賀県出身と紹介されています。
幼少期から柔道に親しみ、小学1年生で競技を始めました。柔道に本格的に取り組むようになった古賀さんは、中学進学の時期に上京し、東京・世田谷にあった柔道の名門育成機関「講道学舎」に入門します。
講道学舎で磨かれた競技者としての基礎講道学舎は、将来の日本代表や世界で活躍する柔道選手を育てることで知られた柔道私塾です。古賀さんはここで弦巻中学校、世田谷学園高校へと進み、全国大会で個人・団体の実績を積み重ねました。
同じ講道学舎には、後にバルセロナ五輪で金メダルを獲得する吉田秀彦さんも在籍していました。二人は先輩・後輩として切磋琢磨し、後年のオリンピックでも深い関係を持つことになります。
日本体育大学への進学と競技者としての飛躍高校卒業後は日本体育大学へ進学。大学時代から国内外の大会で実績を重ね、1987年から1992年まで全日本選抜体重別選手権で活躍しました。
日体大時代に培った技術と勝負への姿勢は、古賀さんの代名詞となる一本背負投にも結びついています。日刊スポーツの訃報記事では、大学の卒業論文のテーマが「背負い投げの魅力を探る」だったことも紹介されています。
単に得意技を繰り返すのではなく、一つの技を研究し、自分の柔道として完成させようとする姿勢がうかがえます。
【五輪・世界選手権】金メダルと銀メダルを獲得した競技人生の年表
古賀稔彦さんの国際大会での実績は、オリンピック2大会のメダルだけではありません。世界柔道選手権でも3度の優勝を果たし、長年にわたって世界トップレベルの選手として活躍しました。
特筆すべきなのは、出場する大会や階級が変わっても結果を残したことです。71kg級で世界の頂点に立ち、後に78kg級へ階級を上げてからも世界選手権とオリンピックでメダルを獲得しています。
古賀稔彦の主要大会・経歴一覧| 年代 | 大会・出来事 | 結果・関係性 |
|---|---|---|
| 1967年 | 福岡県出生・佐賀県出身 | 11月21日生まれ |
| 小学生時代 | 柔道を開始 | 小学1年生から競技に取り組む |
| 1980年前後 | 講道学舎に入門 | 中学進学とともに上京 |
| 1987年 | 全日本選抜体重別選手権 | 以後1992年まで活躍 |
| 1987年 | 世界柔道選手権 | 71kg級・銅メダル |
| 1988年 | ソウルオリンピック | 男子71kg級・3回戦で敗退 |
| 1989年 | 世界柔道選手権 | 71kg級・金メダル |
| 1990年 | 全日本柔道選手権 | 体重無差別で準優勝、小川直也と決勝で対戦 |
| 1991年 | 世界柔道選手権 | 71kg級・金メダル |
| 1992年 | バルセロナオリンピック | 男子71kg級・金メダル |
| 1995年 | 世界柔道選手権 | 78kg級・金メダル |
| 1996年 | アトランタオリンピック | 男子78kg級・銀メダル |
| 2000年 | 現役引退 | 指導者へ転身 |
| 2003年 | 古賀塾を開塾 | 子どもの育成を目的とする柔道道場 |
| 2004年 | アテネオリンピック | 指導した谷本歩実が女子63kg級で金メダル |
| 2021年 | 逝去 | 3月24日、53歳 |
世界柔道選手権の優勝記録は1989年、1991年、1995年の3回です。国際柔道連盟(IJF)の大会記録でも、それぞれ71kg級、71kg級、78kg級で優勝したことが確認できます。
ソウル五輪からバルセロナ五輪へ1988年のソウルオリンピックは、古賀さんにとって初めての五輪でした。男子71kg級で出場しましたが、3回戦で敗退。メダル獲得には届きませんでした。
しかし、この経験が競技人生の終わりになることはありませんでした。その後、世界選手権で連続優勝を果たし、1992年のバルセロナ五輪では日本代表の中心選手として大会に臨みます。
アトランタ五輪では階級を上げて銀メダル1996年のアトランタオリンピックでは、男子78kg級に出場しました。バルセロナ大会の71kg級から階級を上げたうえで決勝まで進み、銀メダルを獲得しています。
オリンピックで金と銀の両方を獲得し、さらに世界選手権でも複数階級で優勝したことは、古賀さんの技術と競技能力の高さを示す実績です。
【平成の三四郎の理由】一本背負投とバルセロナ五輪の大けが
古賀稔彦さんを語るうえで欠かせないのが、「平成の三四郎」という異名です。その由来は、小柄な体格から繰り出される豪快な投げ技と、相手の体格に左右されず一本を取りに行く柔道スタイルにあります。
得意技は豪快な一本背負投古賀さんの代名詞は一本背負投です。相手の腕を制し、自分の体を素早く相手の懐へ入れ、肩を支点にして投げる技術を得意としていました。
古賀さんの一本背負投が特別だったのは、単純な力任せではなかったことです。相手の重心や動きを読み、瞬間的なタイミングで技を仕掛ける鋭さがありました。
身長169cmという体格で、自分より大きな相手にも果敢に挑戦する姿勢は、多くの柔道ファンを魅了しました。
「昭和の三四郎」岡野功との技術的なつながり「平成の三四郎」という呼び名には、柔道界の先人とのつながりもあります。1964年東京五輪の中量級金メダリストで、「昭和の三四郎」と呼ばれた岡野功さんです。
日刊スポーツの競技回顧記事によると、古賀さんの兄・元博さんが岡野さんから一本背負投を学んでおり、その技術が古賀さんにも受け継がれたと紹介されています。
つまり、古賀さんの柔道は独自の才能だけで完成したものではなく、先人から受け継いだ技術を自分の体格や競技スタイルに合わせて磨き上げたものでもありました。
1992年バルセロナ五輪直前の左膝靱帯損傷古賀さんの競技人生で最も劇的な出来事が、1992年バルセロナオリンピック直前の負傷です。
大会直前、後輩の吉田秀彦さんとの練習中に左膝を負傷。靱帯を損傷し、全治約1か月とされる大けがを負いました。日刊スポーツの五輪名勝負の回顧記事では、本番の約10日前に負傷し、歩くことさえ困難な状態だったと伝えられています。
本来ならば出場そのものが危ぶまれる状況でした。それでも古賀さんは出場を決断し、痛み止めの処置などを受けながら畳に上がります。
そして迎えた男子71kg級。決勝ではハンガリーのベルタラン・ハイトシュと対戦し、判定で勝利。ついに金メダルを手にしました。
試合直前の大けがを乗り越えたこの優勝は、日本柔道史に残る名場面です。特に、けがをした練習相手が後輩の吉田さんだったことも、二人の関係を象徴するエピソードとして語り継がれています。
1990年の全日本選手権でも示した挑戦心古賀さんの強さを示すもう一つの記録が、1990年の全日本柔道選手権です。この大会は体重無差別で行われ、軽量級の選手が重量級の選手と戦うことになります。
71kg級を主戦場としていた古賀さんは、大柄な選手を相手に勝ち進み、決勝へ進出しました。決勝では重量級の世界王者だった小川直也さんと対戦し、惜しくも敗れて準優勝となっています。
階級の違いを超えて挑戦する姿勢は、後に「平成の三四郎」という異名を印象づける重要な背景になりました。
【引退後の指導者人生】古賀塾と谷本歩実の金メダル
2000年4月、古賀さんは現役を引退しました。しかし、柔道との関係が途切れたわけではありません。競技者として培った経験を、次世代の選手や子どもたちに伝える指導者の道へ進みます。
2003年に古賀塾を開塾2003年4月、古賀さんは子どもの人間育成を目的とした町道場「古賀塾」を開きました。
競技成績だけを追い求めるのではなく、柔道を通して礼儀や感謝、他者を尊重する姿勢を育てることを重視した活動です。
古賀塾の理念には、柔道の創始者である嘉納治五郎の「精力善用・自他共栄」という考え方が反映されています。自分の力を社会や他者のために役立てること、互いに協力しながら成長することを大切にする考え方です。
谷本歩実をアテネ五輪金メダルへ導く古賀さんの指導者としての実績を象徴するのが、2004年アテネオリンピックです。
当時、全日本女子柔道チームの強化コーチを務めていた古賀さんは、女子63kg級の谷本歩実さんを指導しました。谷本さんはアテネ五輪で見事に金メダルを獲得します。
試合後、谷本さんが古賀さんのもとへ駆け寄り、喜びを分かち合う姿は多くの人の記憶に残りました。選手として世界の頂点を経験した人物が、今度は指導者として金メダリストを育てた瞬間でした。
大学指導と医学博士号の取得古賀さんは2007年4月から環太平洋大学の女子柔道部総監督に就任し、大学柔道の強化にも取り組みました。また、日本健康医療専門学校の校長も務めています。
さらに2012年には弘前大学大学院医学研究科博士課程を修了し、医学博士号を取得しました。競技者としての経験に加えて、身体や健康について専門的に学ぼうとした姿勢も特徴的です。
古賀さんの指導者としての歩みは、単に技術を教えることにとどまりません。子どもからトップ選手まで、それぞれの成長段階に応じて柔道を伝えようとした点に特徴がありました。
【死因・逝去の経緯】古賀稔彦はなぜ53歳で亡くなったのか
古賀稔彦さんは2021年3月24日、53歳で亡くなりました。本人の公式プロフィールには、がんのため神奈川県川崎市の自宅道場で逝去したと記載されています。
公表されている死因は「がん」死因については、古賀塾の公式プロフィールが「がんのため」と公表しています。一部報道では闘病や治療に関する情報も伝えられましたが、公式プロフィールに記載された病名はがんであり、特定の臓器やがんの種類までを同プロフィールが明示しているわけではありません。
2021年3月24日、全日本柔道連盟も訃報を発表しました。突然の知らせに柔道関係者から追悼の声が相次ぎ、同連盟会長だった山下泰裕さんも、柔道界にとって貴重な存在を失ったと悼んでいます。
柔道界に残したもの古賀さんは、選手としてオリンピック金・銀メダルを獲得しただけでなく、引退後も日本柔道の発展に貢献しました。
世界を経験した選手が指導者として次の世代を育て、その選手がまた世界の舞台で結果を残す。この流れを体現した人物の一人が古賀さんです。
公式プロフィールの表彰歴には、2021年の旭日小綬章も記録されています。競技者としての功績だけでなく、柔道の普及や後進育成への貢献も評価されました。
2026年現在、古賀さん本人の新しい活動はありません。しかし、古賀塾の取り組みや指導映像、国際大会の記録を通して、その技術と精神は受け継がれています。
【古賀稔彦に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:古賀稔彦は現在も生きていますか?
A1:いいえ。2021年3月24日に53歳で亡くなりました。2026年現在は、古賀塾の活動や柔道界に残した功績が受け継がれています。
Q2:古賀稔彦の死因は何ですか?
A2:公式プロフィールによると、死因はがんです。2021年3月24日に神奈川県川崎市の自宅道場で逝去しました。
Q3:古賀稔彦はオリンピックで何個のメダルを獲得しましたか?
A3:合計2個です。1992年バルセロナ五輪の男子71kg級で金メダル、1996年アトランタ五輪の男子78kg級で銀メダルを獲得しました。
Q4:古賀稔彦が平成の三四郎と呼ばれた理由は?
A4:小柄な体格ながら豪快な一本背負投を得意とし、自分より大きな相手にも積極的に挑む柔道スタイルが評価されたためです。「昭和の三四郎」と呼ばれた岡野功さんとの技術的なつながりも知られています。
Q5:古賀稔彦の世界選手権の優勝回数は?
A5:世界柔道選手権では3度優勝しています。1989年と1991年に71kg級、1995年に78kg級で金メダルを獲得しました。
Q6:古賀稔彦が指導した有名な柔道選手は誰ですか?
A6:代表的なのは谷本歩実さんです。古賀さんは全日本女子柔道チームの強化コーチとして谷本さんを指導し、2004年アテネ五輪の女子63kg級金メダル獲得を支えました。
Q7:古賀塾は2026年現在も活動していますか?
A7:古賀塾の公式サイトでは2026年の稽古案内が掲載されています。古賀さん本人は2021年に逝去していますが、道場の理念や柔道指導を受け継ぐ活動が続いています。
古賀稔彦さんは、1992年バルセロナオリンピックの金メダル、1996年アトランタオリンピックの銀メダル、世界柔道選手権3度の優勝という輝かしい競技実績を残しました。
その一方で、ソウル五輪での敗退やバルセロナ五輪直前の左膝の大けがなど、決して順風満帆ではない競技人生を歩んできた人物でもあります。特に、靱帯を損傷しながら金メダルを獲得した1992年の試合は、現在も日本柔道を代表する名勝負として語り継がれています。
引退後は古賀塾を開き、谷本歩実さんをはじめとする次世代の育成に力を注ぎました。医学博士号を取得するなど、柔道を競技としてだけでなく、人を育てる教育として捉えていたことも大きな特徴です。
2021年に53歳で逝去した古賀さんですが、2026年現在も、その一本背負投やバルセロナ五輪の金メダル、指導者としての功績は多くの柔道ファンに記憶されています。
古賀稔彦さんが残した最大の財産は、メダルの数だけではありません。体格や逆境を理由に挑戦を諦めず、技術を磨き、次の世代へ柔道の価値を伝え続けた姿勢こそが、「平成の三四郎」の名を今も特別なものにしているのです。
主な照合資料:古賀稔彦・古賀塾公式プロフィールおよび経歴、全日本柔道連盟の訃報、国際柔道連盟の大会記録、日本オリンピック委員会の選手資料、日刊スポーツの競技回顧記事。