江利チエミと高倉健の出会いは、1956年公開の東映映画『恐怖の空中殺人』でした。
同作は1956年12月26日に公開された84分の探偵活劇です。江利チエミは西沢さゆり役、高倉健は島田寿夫刑事役で出演しました。当時の高倉は東映に所属する若手俳優で、江利はすでに歌手として大きな人気を獲得していました。
馴れ初めは高倉健からの積極的なアプローチ?2人の交際について、江利チエミの評伝『江利チエミ 波乱の生涯 テネシー・ワルツが聴こえる』を紹介したプレジデントオンラインの記事では、高倉が江利に強い好意を寄せ、積極的に接近していた経緯が紹介されています。
当時の江利は、東京キューバン・ボーイズのピアニストだった内藤法美に思いを寄せていたとも伝えられています。恋愛について相談した相手が、芸能界で母親のように慕っていた女優・清川虹子でした。
清川は映画『サザエさん』で江利の母親・フネ役を演じた人物です。江利の相談を受け、恋愛について助言したと評伝では描かれています。
清川の助言が交際の後押しになったというエピソードは、2人の馴れ初めを語るうえで欠かせません。
大村崑が語った2人の親密な様子交際当時の様子を伝える証言として知られるのが、俳優・大村崑の回想です。
江利と親交があった大村は、江利の楽屋で高倉を紹介されたときのことを後年振り返っています。
高倉は江利の楽屋に頻繁に訪れ、2人でメロンを半分に分けて食べていたそうです。
このエピソードは、2017年11月のサンケイスポーツの連載「関西レジェンド伝」で紹介され、プレジデントオンラインの記事でも取り上げられました。
映画での共演だけでなく、仕事場での交流を通じて2人の距離が縮まっていった様子がうかがえます。
【結婚生活の実態】1959年2月16日、スター同士の夫婦が誕生

2人が結婚したのは、1959年(昭和34年)2月16日です。
結婚式は東京・帝国ホテルで行われました。この日は高倉健の28歳の誕生日でもあり、江利は22歳。高倉にとって生涯で唯一の結婚となりました。
結婚後、江利チエミは一度家庭に入った結婚を決めた江利は、一度歌手活動から離れ、家庭に入る道を選びました。
当時の江利は、すでに「テネシー・ワルツ」の大ヒットによって全国的な知名度を持つスターでした。
しかし、結婚後も歌への思いは消えていませんでした。翌年には芸能活動を本格化させ、歌手だけでなく女優やミュージカル俳優としても活躍を続けます。
高倉も映画出演を重ね、やがて日本映画界を代表する俳優へと成長しました。
2人はそれぞれの仕事で成功を目指す一方、夫婦としての生活も続けていました。
夫婦生活に訪れた最初の大きな悲しみ結婚から約3年後、江利は妊娠しました。
しかし、妊娠高血圧症候群を発症し、出産には至りませんでした。
2014年の日刊スポーツの記事では、中絶を余儀なくされたと報じられています。一方、別の報道では流産という表現も使われています。
いずれにしても、2人が望んだ子供を迎えることはできず、その後も実子には恵まれませんでした。
子供を持てなかったことは、2人の人生を振り返るうえで重要な出来事です。ただし、この経験だけを離婚の直接的な原因と結びつけることはできません。
【年表・関係者一覧】江利チエミと高倉健の人生を時系列で整理
2人の関係を理解するには、結婚前後だけでなく、江利の芸能活動や家族をめぐる出来事も押さえておく必要があります。
| 時期 | 出来事 | 関係・背景 |
|---|---|---|
| 1952年 | 「テネシー・ワルツ」でデビュー | 江利が人気歌手となる |
| 1956年 | 『恐怖の空中殺人』公開 | 高倉との共演・出会い |
| 1959年2月16日 | 2人が結婚 | 高倉28歳、江利22歳 |
| 1960年 | 江利が芸能活動を再開 | 歌手・女優として活動 |
| 1962年ごろ | 江利が妊娠 | 妊娠高血圧症候群により出産に至らず |
| 1962年ごろ | 異父姉が江利の生活に関わる | 後の金銭トラブルにつながる |
| 1970年 | 自宅が火災に遭う | 夫婦生活にも影響 |
| 1971年 | 2人が離婚 | 結婚から約12年 |
| 1972年 | 江利が異父姉を告訴 | 異父姉に懲役3年の実刑判決 |
| 1982年2月13日 | 江利が45歳で死去 | 高倉との結婚生活は過去のものに |
| 2014年11月10日 | 高倉が83歳で死去 | 生涯再婚しなかった |
| 人物・作品 | 江利・高倉との関係 |
|---|---|
| 清川虹子 | 江利が慕った芸能界の母親的存在。結婚前の恋愛相談や離婚の背景について証言 |
| 大村崑 | 江利と親交があり、交際当時の高倉との交流を回想 |
| 美空ひばり | 江利と雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれた歌手 |
| 雪村いづみ | 江利とともに昭和の歌謡界を代表した歌手 |
| 『恐怖の空中殺人』 | 1956年公開。2人の共演作 |
この年表で注目したいのは、1962年ごろから1971年までの約9年間です。夫婦の間に子供を迎えられなかったこと、江利の家族をめぐる問題、高倉の俳優としての多忙さなど、複数の出来事が重なっていきました。
【離婚理由と真相】異父姉の金銭トラブルだけが原因ではなかった
江利チエミと高倉健の離婚は、1971年に成立しました。
その背景として大きく報じられてきたのが、江利の異父姉による金銭トラブルです。
しかし、離婚の経緯を詳しく見ると、異父姉の問題だけでなく、高倉自身が語った仕事と家庭の両立への苦悩も見逃せません。
異父姉に預金や実印を預けていた江利チエミ1962年ごろ、江利の異父姉が生活に関わるようになります。
母親が父親と結婚する前にもうけた姉で、江利とは父親が異なる関係でした。
江利は姉の境遇を気遣い、生活を支えようとしたと伝えられています。信頼を寄せた結果、家計管理なども任せるようになりました。
ところが、その信頼が裏切られる事態に発展します。
プレジデントオンラインが紹介した藤原佑好の評伝によると、異父姉は江利の銀行預金を使い込み、高利貸しから借金を重ね、江利と高倉の自宅まで担保に入れたとされています。
加えて、江利に対して高倉には別の女性がいるという話を吹き込み、夫婦の信頼関係にも影響を及ぼしたと清川虹子が証言しています。
清川虹子が明かした金銭トラブルの実態この問題を知るきっかけとなったのが、清川虹子の証言です。
清川は、江利の自宅が売りに出されているという話を不動産関係者から聞き、事態を知ったと評伝で語っています。
その証言では、江利が信頼していた異父姉に実印などを預けていたことや、不渡り手形が出回っていたことが説明されています。
清川の証言として紹介された部分には、次の言葉があります。
「実印から何から全部渡していたお姉さんがやったことでした」
江利は自分の財産管理を任せていた人物によって、経済的にも精神的にも大きな負担を背負うことになりました。
数億円とも報じられた借金問題異父姉による金銭トラブルで発生した借金は、億単位に達したと伝えられています。
報道や評伝紹介では、2億円から3億円ともされる規模の借財が取り上げられています。
ただし、これらの金額には報道による幅があり、確定した債務総額として一つの数字に固定するのは適切ではありません。
江利は1971年の離婚後、1972年に異父姉を告訴しました。コトバンク掲載の『新撰 芸能人物事典 明治~平成』には、異父姉に懲役3年の実刑判決が下されたと記載されています。
また、江利自身も借金の返済を続け、最終的には完済したとされています。
高倉健が1972年の手記で明かした離婚への思いここで見逃せないのが、高倉健自身の言葉です。
高倉は1972年12月10日号の『サンデー毎日』に「男の人生を語らせてもらいます」と題した特別手記を寄稿しました。
そこでは、江利との結婚生活を振り返り、自分が俳優という仕事に没頭するあまり、家庭を幸せにできなかったのではないかと悩んでいたことを明かしています。
高倉は手記の中で、次のように述べています。
「別れる以外にない。これが僕の出した結論だった」
この言葉は、離婚の背景を考えるうえで非常に重要です。
異父姉の金銭問題だけが理由なら、高倉自身が家庭生活への責任をこれほど強く語る必要はありません。
高倉は自分の仕事中心の生き方を省みて、江利を幸せにできなかったという思いを抱いていたのです。
離婚を切り出したのは江利チエミだったのか?報道によると、1971年の離婚は江利側から申し入れられたとされています。
2012年の女性自身の記事では、高倉が後年のインタビューで、東映撮影所に弁護士が訪れ、代理人を通じて離婚を告げられたと振り返ったことが紹介されています。
高倉自身は、当時、夫婦関係がそれほど悪化しているとは考えていなかったようです。
一方、1972年の手記では、自分自身の生き方を振り返り、別れることを自分の結論として説明しています。
つまり、離婚の申し入れを誰がどのように伝えたかという手続き上の経緯と、最終的に高倉が離婚をどう受け止めたかは、分けて考える必要があります。
離婚の背景には、親族の金銭問題と夫婦間のすれ違い、そして高倉自身の家庭に対する葛藤が重なっていたと考えるのが、複数の証言を踏まえた理解です。
【子供・水子地蔵・墓参り】離婚後も続いたとされる2人の絆
江利チエミと高倉健の関係を語る際、離婚後の墓参りや水子地蔵の存在も大きな関心を集めています。
2人に子供はいた?妊娠と出産に至らなかった経緯2人の間に、成長した実子はいません。
結婚から約3年後の1962年ごろ、江利は妊娠しました。しかし、妊娠高血圧症候群を発症し、出産には至らなかったと報じられています。
日刊スポーツは2014年の記事で、母体と胎児の状態から中絶を余儀なくされたと伝えています。
この出来事は、2人にとって大きな悲しみだったと考えられます。
高倉健の墓に建てられた水子地蔵2014年11月19日の日刊スポーツは、高倉の鎌倉霊園にある生前墓の横に、江利との間に生まれなかった子供を供養する水子地蔵が建てられていると報じました。
その墓は、2人が離婚した翌年の1972年に購入されたとされています。
2012年の女性自身の記事でも、高倉の墓のそばに水子地蔵があり、戒名の一文字には江利の本名に由来する文字が使われていたという芸能関係者の証言が紹介されています。
水子地蔵は、2人の間に生まれなかった子供を供養するためのものとして伝えられています。
離婚後も高倉が子供の存在を忘れず、供養を続けていたというエピソードは、2人の関係を象徴する話として知られています。
江利チエミの死後も続いた高倉健の墓参り江利チエミは1982年2月13日、45歳で亡くなりました。
高倉は葬儀には姿を見せなかったと日刊スポーツは報じていますが、江利の命日には毎年墓参りをして花を手向けていたと伝えられています。
また、BS朝日の番組『昭和偉人伝』の江利チエミ特集では、江利の死後、久保家の仏壇に毎年欠かさず線香を届けていた人物が高倉だったと紹介されています。
この番組は、江利を知るペギー葉山や弟の久保益己らの証言、遺族が保管していた映像などをもとに、江利の生涯と離婚の背景を取り上げました。
ここで注意したいのは、離婚後に2人が頻繁に会っていたという事実まで確認できるわけではないことです。
報道から読み取れるのは、墓参りや供養、線香を届ける行為を通じて、高倉が元妻を長く気にかけていたということです。
離婚によって夫婦という関係は終わっても、江利への敬意や思いが完全に消えたわけではなかったのでしょう。
【テネシー・ワルツと江利チエミの生涯】高倉健の元妻だけではない歌手としての功績
江利チエミを高倉健の元妻という立場だけで語るのは、彼女の人生の大きな部分を見落とすことになります。
江利は、戦後の日本の音楽史に大きな足跡を残した歌手・女優でした。
15歳で「テネシー・ワルツ」が大ヒット江利チエミは1937年1月11日、東京に生まれました。
12歳ごろから進駐軍キャンプで歌い、ジャズを中心に歌唱力を磨きます。
1952年1月、キングレコードから「テネシー・ワルツ」でレコードデビュー。同年の「トゥー・ヤング」もヒットし、一躍人気歌手となりました。
その後、美空ひばり、雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれ、昭和の歌謡界を代表する存在になります。
キングレコードの公式プロフィールによると、江利は1953年から16年連続でNHK紅白歌合戦に出場しました。
女優・ミュージカル俳優としても活躍江利の才能は歌だけにとどまりませんでした。
映画『サザエさん』シリーズでは主人公のフグ田サザエを演じ、テレビや舞台でも同役を務めています。
加えて、ミュージカル『マイ・フェア・レディ』などにも出演し、歌手・女優・舞台俳優として活動の幅を広げました。
こうした実績は、江利が単なる歌謡界のスターではなく、ジャンルを超えて活躍できるエンターテイナーだったことを示しています。
借金完済と30周年記念活動、そして突然の死異父姉をめぐる金銭トラブルの後も、江利は仕事を続けました。
多額の借金を自力で返済し、1980年には芸能生活30周年記念の活動を展開しています。
1982年2月13日、江利は東京都港区高輪の自宅で倒れているところを発見されました。脳出血で意識を失い、吐瀉物が気道に詰まったことによる窒息死とされています。享年45でした。
一方、高倉健も2014年11月10日、悪性リンパ腫のため83歳で亡くなっています。高倉プロモーションの発表によると、葬儀は故人の遺志に従って近親者のみで執り行われました。
2026年も受け継がれる江利チエミの音楽2026年現在、江利の歌声は過去の記録にとどまっていません。
キングレコードは公式アーティストページで江利の楽曲やプロフィールを紹介し、2026年1月16日には復刻JAZZレコードの試聴イベントも告知しています。
「テネシー・ワルツ」をはじめとする楽曲が、現在も復刻や音楽企画を通じて紹介されていることは、江利の音楽的な評価が今も受け継がれている証拠です。
【江利チエミと高倉健の離婚】よくある質問(FAQ)
Q1:江利チエミと高倉健はいつ結婚し、いつ離婚しましたか?
1959年2月16日に結婚し、1971年に離婚しました。結婚式は帝国ホテルで行われ、高倉の28歳の誕生日でもありました。
Q2:江利チエミと高倉健の離婚理由は何ですか?
江利の異父姉による預金の使い込みや借金、自宅の担保設定、夫婦間の不信感などが大きな背景として報じられています。また、高倉自身も俳優業に没頭し、家庭を幸せにできなかったという思いを手記に記しています。
Q3:江利チエミと高倉健の間に子供はいましたか?
実子はいません。1962年ごろに妊娠しましたが、妊娠高血圧症候群のため出産には至りませんでした。
Q4:高倉健は江利チエミの墓参りを続けていたのですか?
日刊スポーツや女性自身の報道、BS朝日の番組紹介では、離婚後も高倉が江利の墓参りや供養を続けていたと伝えられています。
Q5:水子地蔵はどこにありますか?
2014年の日刊スポーツによると、高倉健が生前墓を購入した鎌倉霊園にあり、江利との間に生まれなかった子供を供養するものとされています。
Q6:高倉健は江利チエミと離婚した後、再婚しましたか?
再婚していません。江利チエミが高倉にとって生涯唯一の妻でした。
【プロの結論】2人の離婚は愛情の消失だけでは説明できない
江利チエミと高倉健の結婚から離婚までを振り返ると、そこには単純な芸能人夫婦の破局とは異なる事情が見えてきます。
1956年の映画共演から始まった2人の関係は、1959年の結婚によって夫婦としての新しい人生を迎えました。しかし、子供を失った悲しみ、江利の異父姉による金銭トラブル、高倉の仕事中心の生活など、複数の問題が重なり、1971年に結婚生活は終わりました。
特に重要なのは、離婚後の高倉が残した手記です。自分の生き方を振り返り、江利を幸せにできなかったという思いを語ったことは、離婚を単なる親族トラブルの結果として片づけられないことを示しています。
また、墓参りや線香、水子地蔵にまつわる報道は、離婚後も江利を気にかけていた高倉の姿を伝えています。ただし、そこから2人が復縁していたと解釈することはできません。
2人の離婚は、愛情がなかったから起きたという単純な話ではなく、愛情が残るなかで、それぞれが抱えた事情や苦悩によって別々の道を選んだ出来事だったのです。
2026年現在も、江利チエミの「テネシー・ワルツ」は昭和歌謡の名曲として残り、高倉健の映画も世代を超えて見続けられています。
2人の関係を知ることは、昭和の芸能史を知るだけでなく、スターとして生きることと、一人の人間として家庭を築くことの難しさを考えることにもつながります。