ホーム 芸能ニュース・ゴシップ 【カミソリシュートの仕組み】平松政次の魔球はなぜ打てなかったのか

【カミソリシュートの仕組み】平松政次の魔球はなぜ打てなかったのか

花村 圭 花村 圭 • 更新: • 公開: • 読了約 10 分
目次

平松政次氏を語るうえで欠かせないのが、「カミソリシュート」と呼ばれた独特の変化球だ。

単なるシュートではなく、打者が軌道を予測しにくい変化と、鋭い横方向への動きが組み合わさった球種だった。

カミソリシュートが生まれた意外なきっかけ

2024年10月にFNNプライムオンラインで掲載されたインタビューでは、平松氏本人がシュート習得の経緯を振り返っている。

きっかけは、日本石油で練習していた頃に現れた、見知らぬ男性だった。

その男性からシュートの投げ方を教わったものの、当時の平松氏は本格的にシュートを投げるつもりはなかったという。

その後、1969年のキャンプで先輩選手たちを相手に、その教えを思い出して投げてみたところ、打者が驚くほど鋭い変化を見せた。

最初に投げた6球がいずれも強烈な印象を与え、周囲の選手や指導者が注目するようになった。

カミソリシュートの握り方と変化の特徴

平松氏の投球技術については、本人のインタビューを通じて興味深い特徴が明らかになっている。

最大の特徴は、ボールの縫い目に指をかけない独特の握り方だったこと。

一般的な投球では、縫い目に指をかけてボールに回転を与える。しかし、平松氏は指を縫い目にかけず、独自の感覚でボールを扱っていた。

加えて、ストレートとシュートでは腕の使い方にも微妙な違いがあった。

週刊ベースボールのインタビューでは、次のような技術的特徴が紹介されている。

- 独特の握り方: 指を縫い目にかけずに投げる。
- 腕の使い方: ストレートとは異なる微妙なタイミングで腕を振る。
- 変化の方向: 打者から見て鋭く横方向に滑るような軌道。
- 打者への影響: シュートだと見極めるのが遅れ、バットの芯で捉えにくい。

特に重要なのは、変化の大きさだけではない。打者が球種を判断する前にボールが変化するため、対応する時間そのものが限られていたことだ。

なぜ「カミソリ」と呼ばれるようになったのか

興味深いのは、この愛称の名付け親が長嶋茂雄氏だったというエピソードだ。

FNNのインタビューによると、引退後に平松氏が関係者から聞いた話では、長嶋氏が試合後に平松氏のシュートをカミソリのようだと表現したことが、呼び名の由来になったという。

つまり、カミソリシュートという名称は、本人が自ら名乗ったものではなく、対戦相手だった長嶋氏の印象的な表現から生まれたものだった。

憧れの選手であり、最大のライバルでもあった長嶋氏から、自分の代名詞となる名前を付けられたというのは、平松氏の野球人生を象徴するエピソードだ。

【巨人キラーの理由】長嶋茂雄を苦しめた51勝の実績

平松政次

平松政次氏には「巨人キラー」という異名がある。

その理由は、単に巨人戦で好投したからではない。数字そのものが、その呼び名を裏付けている。

通算201勝のうち51勝が巨人戦

平松氏はプロ通算201勝を挙げたが、そのうち51勝を巨人から記録している。

これは通算勝利数の約4分の1に相当する。

一つの球団を相手にこれだけの勝利を積み重ねたことは、対巨人戦における相性の良さと、長期間にわたる安定した投球を示している。

野球殿堂博物館の紹介でも、51勝という対巨人戦の実績と「巨人キラー」という異名が明確に記されている。

巨人の強打者にカミソリシュートが有効だった

巨人キラーと呼ばれた背景には、カミソリシュートの特性があった。

特に右打者にとって、鋭く内側へ食い込むシュートは非常に厄介な球だった。

週刊ベースボールのインタビューでは、長嶋氏が平松氏のシュートを警戒し、打席から逃げるような反応を見せていたという元大洋捕手・土井淳氏の証言も紹介されている。

シュートの変化を予測して逃げようとしても、ボールがその方向に食い込んでくる。打者にとっては、簡単に対応できる球ではなかった。

憧れの巨人を倒すという特別な思い

もう一つ見逃せないのが、平松氏自身が少年時代に巨人ファンだったことだ。

特に長嶋茂雄氏への憧れは強く、巨人でプレーすることを夢見ていた時期もあった。

しかし、プロ入り後は大洋の投手として巨人と対戦する立場になった。

日刊スポーツなどの報道でも、平松氏が長嶋氏への憧れを語り、巨人戦では特別な集中力を発揮していたことが伝えられている。

単なる相手球団への対抗心ではなく、憧れの選手に自分の存在を認めてもらいたいという思いも、勝負への強いこだわりにつながっていた。

このように、巨人キラーという評価は、次の3つの要素から成り立っている。

1. 巨人から51勝を挙げた圧倒的な対戦実績。
2. 打者の対応を難しくするカミソリシュートの存在。
3. 長嶋茂雄氏への憧れを原動力にした勝負への集中力。

平松氏の巨人戦での強さは、技術と精神面の両方から理解する必要がある。

【引退後の活動】名球会入りから2017年の野球殿堂入りまで

1984年に現役を引退した平松氏だが、プロ野球との関係はそこで終わらなかった。

1983年に通算200勝を達成、日本プロ野球名球会入り

平松氏が通算200勝を達成したのは、現役最終年の1984年ではなく、1983年10月21日だった。

この節目によって日本プロ野球名球会の会員となった。

200勝は、先発投手として長年にわたり結果を出し続けなければ到達できない大記録だ。現代の投手起用と比較しても、その達成には長期間の稼働と安定した実力が必要となる。

名球会の公式プロフィールにも、通算18年間の成績と200勝達成日が掲載されている。

2017年1月16日、野球殿堂入り

平松氏にとって、もう一つの大きな節目が2017年の野球殿堂入りだ。

2017年1月16日、公益財団法人野球殿堂博物館は、その年の殿堂入りを発表。平松氏は星野仙一氏らとともに、競技者表彰のエキスパート表彰で選出された。

野球殿堂入りは、選手としての実績だけでなく、日本野球界に残した功績を評価するものでもある。

平松氏の場合、201勝、2,045奪三振、沢村賞、巨人戦51勝という数字に加え、長年にわたる大洋のエースとしての存在感が評価された。

同年12月には横浜市内で殿堂入りを祝う会が開かれ、球界関係者や経済界、政界などから約800人が集まったと日刊スポーツが報じている。

この席で平松氏は、長年支えてくれた人々への感謝を表していた。

故郷・岡山での少年野球振興にも貢献

平松氏の野球界への貢献は、プロ野球の解説やOB活動だけではない。

岡山県のスポーツ特別顕彰資料によれば、出身地の高梁市では1994年から少年野球大会を主管し、地域の野球振興にも尽力してきた。

また、2006年には横浜ベイスターズ・スポーツコミュニティの初代理事長に就任している。

現役時代に培った経験を、次の世代の育成や地域スポーツの発展に生かしてきた点も、平松氏のキャリアを評価する重要な要素だ。

【よくある質問】平松政次に関するFAQ

Q1:平松政次は2026年現在、何をしていますか?

A1:野球解説者としてプロフィールが掲載されている。2026年1月13日にはNHK BSの『レジェンドの目撃者~カミソリシュート 平松政次~』にも出演した。

Q2:平松政次の通算成績は何勝ですか?

A2:通算201勝196敗16セーブ、2,045奪三振、防御率3.31。635試合に登板し、145完投、28完封を記録している。

Q3:平松政次のカミソリシュートは誰が名付けたのですか?

A3:長嶋茂雄氏が名付けたとされる。試合後に平松氏のシュートをカミソリのようだと表現したことが名称の由来になったというエピソードが、本人のインタビューで紹介されている。

平松政次氏は、大洋ホエールズで18年間プレーし、通算201勝、2,045奪三振という輝かしい成績を残した名投手だ。

しかし、その評価を勝利数だけで終わらせるのは十分ではない。

特に注目したいのは、次の3点である。

- 長期的な安定性: 1969年から1980年まで12年連続2桁勝利を記録した。
- 独自の投球技術: カミソリシュートという、打者の対応を難しくする武器を確立した。
- 野球界への貢献: 名球会入り、野球殿堂入りを果たし、引退後も解説や少年野球の振興に携わってきた。

1970年の沢村賞、巨人戦51勝、1983年の200勝達成、そして2017年の野球殿堂入り。これらは別々の実績ではなく、18年間にわたって積み重ねた努力と技術の結果としてつながっている。

2026年現在も、NHK BSの特集番組などを通じて、その投球と野球人生が取り上げられている。

平松政次の本当の偉大さは、201勝という数字に加え、自分だけの武器を磨き上げ、強敵との勝負で結果を残し、引退後も野球界に貢献し続けてきたことにある。

昭和のプロ野球を知る世代にとっては忘れがたい名投手であり、現代の野球ファンにとっても、投手の技術と勝負哲学を学ぶ価値のあるレジェンドだ。

同じカテゴリの記事

花村 圭

芸能ニュースを担当して12年。所属事務所の公式リリース、制作発表の資料、配信サービスの告知を一次情報として確認し、裏付けのない話は記事にしていません。

おすすめの関連記事