高橋一三(たかはし・かずみ)は、読売ジャイアンツのV9時代を支えた伝説的な左腕投手です。1946年6月9日に広島県で生まれ、1965年に巨人へ入団。堀内恒夫とともに投手陣の中心を担い、現役19年間で通算167勝を記録しました。沢村賞を2度受賞した実績に加え、アニメ『巨人の星』の主人公・星飛雄馬の投球フォームのモデルとしても知られています。
1975年には張本勲との大型トレードで日本ハムファイターズへ移籍し、1983年に現役を引退。その後はプロ野球の指導者を経て山梨学院大学の監督も務めました。2015年7月14日に69歳で亡くなっています。2026年現在も、V9巨人を象徴する名左腕として、その記録と功績が語り継がれています。
【プロフィール】高橋一三の読み方・生年月日・出身地と基本情報

高橋一三の読み方は「たかはし・かずみ」です。「一三」という名前は「いちぞう」などと読まれることもありますが、本人の正式な読み方は「かずみ」です。
日本野球機構(NPB)の選手データにも、読み仮名や現役時代の身体情報が登録されています。
高橋一三の基本プロフィール| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 高橋一三 |
| 読み方 | たかはし・かずみ |
| 生年月日 | 1946年6月9日 |
| 出身地 | 広島県 |
| 出身高校 | 北川工業高校(現・府中東高校) |
| 身長 | 178cm |
| 体重 | 78kg |
| 投打 | 左投左打 |
| ポジション | 投手 |
| プロ入り | 1965年 |
| 所属球団 | 読売ジャイアンツ、日本ハムファイターズ |
| 現役引退 | 1983年 |
| 死去 | 2015年7月14日(69歳) |
| 妻 | 橘和子(元映画女優) |
高橋は広島県の北川工業高校を卒業後、1965年に読売ジャイアンツへ入団しました。
当時の巨人は、川上哲治監督のもとで黄金時代を築き始めていた時期です。
高橋は左腕から繰り出す力強い速球と、落差の大きなカーブを武器に成長。真上から投げ下ろすようなダイナミックなフォームも特徴でした。
入団直後から圧倒的な成績を残したわけではありません。1966年に6勝を挙げて一軍に定着し、その後、着実に実績を積み上げていきます。
1969年には22勝を記録。巨人の主力投手として確固たる地位を築きました。
【巨人V9】高橋一三はなぜ左のエースと呼ばれたのか?通算167勝と沢村賞2度の実績
高橋一三を語るうえで欠かせないのが、1965年から1973年まで続いた読売ジャイアンツのV9です。
9年連続リーグ優勝、そして9年連続日本一という歴史的な記録を残したチームにおいて、高橋は左の先発エースとして重要な役割を果たしました。
当時の巨人には、右腕の堀内恒夫と左腕の高橋一三という強力な投手の両輪が存在しました。
1969年に22勝を挙げて沢村賞を初受賞高橋の最初の大きな転機は1969年です。
この年は45試合に登板し、22勝5敗、防御率2.21、勝率.815という優れた成績を残しました。
最多勝と最高勝率を獲得し、沢村賞にも選出されています。
特に注目したいのは、勝利数だけではありません。
256イニングを投げ、221奪三振を記録。先発投手として長いイニングを任されながら、相手打線を抑える能力を示しました。
1973年は23勝・238奪三振の圧巻のシーズン2度目の沢村賞を獲得したのが1973年です。
この年は45試合に登板して23勝13敗、防御率2.21。投球回数306回1/3、奪三振238という数字を残しました。
最多奪三振のタイトルも獲得しています。
巨人がV9を達成した年に、これだけの成績を残したことは、高橋の存在感を象徴する出来事です。
NPB公式記録で確認できる通算成績日本野球機構の個人年度別成績によると、高橋の通算成績は次のとおりです。
| 記録項目 | 通算成績 |
|---|---|
| 登板 | 595試合 |
| 勝利 | 167勝 |
| 敗戦 | 132敗 |
| セーブ | 12 |
| 防御率 | 3.18 |
| 投球回 | 2,778回 |
| 奪三振 | 1,997 |
| 完投 | 128 |
| 完封勝利 | 26 |
| 勝率 | .559 |
主なタイトル・表彰は以下のとおりです。
| タイトル・表彰 | 回数・年度 |
|---|---|
| 沢村賞 | 2回(1969年・1973年) |
| 最多勝 | 1回(1969年) |
| 最高勝率 | 1回(1969年) |
| 最多奪三振 | 1回(1973年) |
| 最優秀投手 | 2回 |
| ベストナイン | 2回 |
| オールスター出場 | 6回 |
通算167勝は、単なる一時的な活躍ではなく、19年間にわたってプロの第一線で投げ続けた結果です。
また、通算2,778イニングという数字からも、先発投手として長くチームを支えていたことが分かります。
【人物相関・経歴】堀内恒夫との関係、張本勲とのトレード、日本ハム時代
高橋一三の野球人生には、堀内恒夫、張本勲、富田勝といった当時の球界を代表する人物が深く関わっています。
それぞれとの関係を整理すると、巨人の黄金時代から日本ハムへの移籍、そして現役引退までの流れが見えてきます。
高橋一三を取り巻く人物・球団の関係| 人物・球団 | 高橋一三との関係 | 主な出来事 |
|---|---|---|
| 堀内恒夫 | 巨人時代の同僚・親友 | V9を支えた右のエースと左のエース |
| 張本勲 | トレード相手 | 1975年オフの交換トレードで巨人へ移籍 |
| 富田勝 | トレードの同時移籍選手 | 高橋とともに日本ハムへ移籍 |
| 読売ジャイアンツ | 最初の所属球団 | 1965年入団、V9時代の主力投手 |
| 日本ハムファイターズ | 2番目の所属球団 | 1976年から1983年まで在籍 |
| 山梨学院大学 | 指導者としての所属先 | 2009年に硬式野球部監督へ就任 |
| 橘和子 | 妻 | 元映画女優 |
高橋と堀内は、単に同じチームに所属していた投手同士ではありません。
堀内恒夫本人が自身の公式ブログで公開した回想によると、高橋は堀内より1歳年上で、巨人時代には寮で3年間一緒に生活した仲でした。
堀内は当時の高橋について、V9時代の自分が右のエース、高橋が左のエースだったと振り返っています。
加えて、野球以外でも一緒に飲みに出かけたり、遊びに行ったりする間柄だったことを紹介しています。
堀内の車に同乗するのではなく、堀内が高橋の車に乗せてもらっていたという思い出も残されています。
こうした回想からは、二人がプロ野球のライバルであると同時に、日常生活でも親しく付き合っていたことが分かります。
巨人の黄金時代を語る際に「右の堀内、左の高橋」と並べられるのは、実績だけでなく、投手陣を支えた二人の存在が大きかったためです。
張本勲との大型トレードはなぜ実現した?高橋のキャリアにおける大きな転換点が、1975年11月25日に発表された交換トレードです。
巨人は高橋一三と富田勝を日本ハムへ送り、張本勲を獲得しました。
当時の張本は球界屈指の安打製造機として知られた大打者です。
1975年の巨人は長嶋茂雄監督の就任1年目で、球団史上初の最下位に沈んでいました。
週刊ベースボールのトレード特集でも、この移籍は当時の球界を揺るがした大型トレードとして取り上げられています。
巨人にとっては打線強化を目指す補強であり、日本ハムにとっては投手と内野手を獲得する大きな戦力交換でした。
高橋にとっては、V9を支えた巨人を離れるという大きな決断につながりました。
日本ハム移籍後も現役投手として活躍1976年から日本ハムでプレーした高橋は、巨人時代とは異なる環境で野球を続けます。
移籍初年度は10勝を記録。1978年以降は登板数や成績が落ち込む時期もありましたが、1980年には9勝、1981年には14勝を挙げています。
特に1981年は26試合に登板し、14勝6敗、防御率2.94、勝率.700という好成績でした。
この年の日本ハムはパ・リーグ優勝を果たしています。
巨人時代の輝かしい実績だけでなく、日本ハムでも再びチームの勝利に貢献したことは、高橋の投手としての息の長さを示しています。
1983年、19年間の現役生活に幕を下ろしました。
【巨人の星】星飛雄馬のモデルは高橋一三?投球フォームの真相
高橋一三には、プロ野球ファン以外にも知られる意外なエピソードがあります。
それが、アニメ『巨人の星』の主人公・星飛雄馬の投球フォームとの関係です。
星飛雄馬といえば、足を高く上げ、全身を大きく使って投げ込むダイナミックなフォームが印象的なキャラクターです。
このフォームの参考になった実在の投手が高橋一三だったと紹介されています。
アニメ版の投球フォームに高橋の動きが採用されたアニメ制作に携わった読売テレビのプロデューサー・佐野寿七の証言として紹介されている内容によれば、星飛雄馬が巨人に入団してからの投球フォームは、高橋一三をモデルにしたものです。
制作スタッフは多摩川グラウンドで高橋が投球する姿を撮影し、その映像をアニメーション制作の参考にしたとされています。
当時、巨人には新浦壽夫などの左投手もいましたが、最終的に高橋のフォームが参考に選ばれたという経緯です。
高橋一三のフォームは何が特徴的だった?高橋の投球スタイルには、次のような特徴がありました。
- 真上から投げ下ろすようなダイナミックな腕の振り。
- 大きな体重移動を使った投球動作。
- 力強い速球と落差のあるカーブ。
- 全身を使った躍動感のある投球フォーム。
こうした特徴は、アニメ版の星飛雄馬の投球描写とも重なります。
星飛雄馬の人物モデルが高橋一三だったという意味ではないここで注意したいのは、「星飛雄馬のモデル」という表現の範囲です。
高橋との関係で具体的に語られているのは、主にアニメ版における投球フォームです。
星飛雄馬というキャラクターの生い立ちや性格、物語全体が高橋一三をモデルにして作られたという意味ではありません。
つまり、より正確には、高橋一三はアニメ版・星飛雄馬の投球フォームに影響を与えた実在のプロ野球選手という位置づけです。
この違いを理解しておくと、ネット上で広まっている「星飛雄馬のモデル」という話を正しく捉えられます。
【引退後・晩年】山梨学院大学の監督就任から2015年の死去まで
1983年に現役を引退した高橋一三は、その後も野球界に関わり続けました。
長年のプロ野球経験を生かし、巨人や日本ハムで投手コーチ、二軍監督などを歴任しています。
2009年に山梨学院大学の監督へ就任2009年4月、高橋は山梨学院大学硬式野球部の監督に就任しました。
プロ野球で培った投手育成や試合運びの経験を、大学野球の現場に生かす立場となりました。
山梨学院大学のカレッジスポーツセンターの資料にも、2009年の高橋監督就任が記録されています。
大学野球は、プロとは異なり、選手の成長や学生としての生活も含めて指導する必要があります。
長年プロのマウンドに立ってきた高橋が、次世代の選手を育てる側に回ったことは、野球人生の新たな段階でした。
しかし、体調不良により2014年4月に監督を退任しています。
妻は元映画女優の橘和子高橋一三の妻は、元映画女優の橘和子です。
高橋の夫人については、2015年の訃報を伝えた日刊スポーツの略歴記事でも紹介されています。
一方、夫婦生活の詳しいエピソードや家族のプライベートについては、広く公表された情報が限られています。
そのため、子どもの人数や家族の詳細などを、確定した事実として扱うことはできません。
高橋の公的な経歴を振り返る際には、妻が橘和子であるという確認できる情報と、それ以外の非公表情報を区別することが大切です。
2015年7月14日、多臓器不全で69歳で死去高橋一三は2015年7月14日午後4時59分、東京都内の病院で亡くなりました。
享年69歳でした。
翌15日、読売ジャイアンツが死去を発表し、日刊スポーツなどの報道各社が訃報を伝えています。
死因は多臓器不全でした。
V9時代を知る野球ファンにとって、高橋の訃報は巨人の黄金時代を支えた名投手の一人を失う出来事となりました。
堀内恒夫も後年、自身の公式ブログで高橋との思い出を振り返り、寮で一緒に過ごした日々や野球以外での交流について記しています。
高橋の存在が、単なる記録上の名投手にとどまらず、当時の仲間たちの記憶にも深く刻まれていたことが伝わります。
2026年現在の高橋一三は?2026年11月現在、高橋一三は2015年に亡くなっているため、現役選手や指導者として活動しているわけではありません。
現在確認できるプロフィールは、NPBの公式記録、球団発表を伝えた報道、関係者の回想などに残されています。
特に、次の3点は高橋の功績を理解するうえで欠かせません。
1. 巨人V9を支えた左のエースとしての実績。
2. 19年間で167勝を積み重ねたプロ野球選手としての記録。
3. プロ野球の指導者として次世代に経験を伝えた功績。
現役引退後も野球界に関わり続けたことから、高橋のキャリアは1983年で完全に終わったわけではありませんでした。
【よくある質問】高橋一三に関するFAQ
Q1:高橋一三の読み方は何ですか?
A1:たかはし・かずみです。1946年6月9日生まれで、広島県出身の元プロ野球投手です。
Q2:高橋一三の通算成績は何勝ですか?
A2:通算167勝132敗12セーブです。595試合に登板し、防御率3.18、奪三振1,997を記録しました。
Q3:高橋一三は沢村賞を何回受賞しましたか?
A3:2回です。1969年と1973年に受賞しています。1969年には22勝、1973年には23勝を挙げました。
Q4:高橋一三と堀内恒夫は親友だったのですか?
A4:はい。巨人時代に寮で3年間一緒に生活した間柄です。堀内本人も公式ブログで、野球以外でも一緒に出かける親しい関係だったと振り返っています。
Q5:高橋一三はなぜ日本ハムに移籍したのですか?
A5:1975年11月25日に発表された交換トレードによるものです。巨人は高橋一三と富田勝を日本ハムへ送り、張本勲を獲得しました。
Q6:高橋一三は星飛雄馬のモデルだったのですか?
A6:アニメ版『巨人の星』で、星飛雄馬が巨人に入団してからの投球フォームの参考になったとされています。キャラクター全体のモデルというより、投球動作との関係が知られています。
Q7:高橋一三の妻は誰ですか?
A7:妻は元映画女優の橘和子です。詳しい家族構成や私生活については、公表されている情報が限られています。
Q8:高橋一三の死因は何ですか?
A8:2015年7月14日に多臓器不全のため、東京都内の病院で亡くなりました。69歳でした。
Q9:高橋一三は山梨学院大学で監督をしていたのですか?
A9:はい。2009年4月に山梨学院大学硬式野球部の監督に就任しましたが、体調不良により2014年4月に退任しています。
高橋一三は、読売ジャイアンツのV9を支えた左のエースであり、プロ野球史に残る実績を持つ投手です。
1969年と1973年の沢村賞2度の受賞、通算167勝、1,997奪三振という記録は、その実力を客観的に示しています。
また、堀内恒夫との友情、張本勲との大型トレード、日本ハムでの再起、山梨学院大学での指導者経験など、野球人生には数多くの転換点がありました。
特に注目したいのは、巨人時代の実績だけで高橋のキャリアを評価するのでは不十分だという点です。日本ハム移籍後の1981年にも14勝を挙げ、長い現役生活の中で新たな活躍を見せています。
加えて、アニメ『巨人の星』の星飛雄馬の投球フォームにも影響を与えたというエピソードは、実際のプロ野球選手の身体表現が、漫画やアニメという文化に受け継がれた興味深い事例です。
2015年7月14日に69歳で亡くなった高橋一三。2026年現在も、NPBの公式記録や堀内恒夫の回想などを通じて、その功績をたどることができます。
高橋一三の本当の偉大さは、167勝という数字だけではありません。巨人V9を支え、日本ハムでも結果を残し、引退後は次世代の育成にも携わった、その一貫した野球人生にあります。
主な参照資料: 日本野球機構(NPB)公式個人年度別成績、読売ジャイアンツの発表を伝えた日刊スポーツ、堀内恒夫公式ブログ、週刊ベースボールONLINE、山梨学院大学カレッジスポーツセンター資料。