米津玄師とwowaka(ヲワカ)は、単に同じ時代に活躍したボカロPという関係ではない。2009年前後、ニコニコ動画のVOCALOIDシーンで活動を始めた二人は、互いの才能を認め合い、時にはライバルとして意識しながら、やがてプライベートでも頻繁に酒を飲む親友になった。米津玄師はハチという名義で活動していた時代からwowakaの音楽に強い衝撃を受けており、2019年の追悼文では、彼を「ライバルであり、親友であり、どこか兄のようでもあった」と表現している。
二人の関係を知るうえで欠かせないのが、米津玄師が2019年4月10日に公式サイトで公開した追悼文「野暮」と、wowakaが2015年のインタビューで語った米津への思いだ。さらに2024年には『wowaka 歌詞集』に米津玄師が寄稿し、帯コメントも発表された。2026年現在までに明らかになっている二人の交流、音楽的な影響、死別後の出来事を時系列で整理する。
【関係の真相】米津玄師とwowakaはライバルであり親友だった

米津玄師とwowakaの関係を端的に表す言葉は、米津自身が残した「ライバルであり、親友」という表現だ。これはファンの間で広まった推測ではなく、2019年4月10日に米津玄師が自身の公式サイトで公開した文章に記された本人の言葉である。
同じ時期にボーカロイド楽曲を発表し始めた二人は、創作活動において互いを強く意識していた。米津はwowakaに対して負けたくないという競争心を持ちながら、それ以上に尊敬していた。一方、wowakaも米津を尊敬し、誰よりも意識する存在として語っていた。
僕にとって彼はライバルであり、親友であり、どこか兄のようでもあった。でも亡くした。
――米津玄師「野暮」(2019年4月10日)
この一文には、二人の関係の複雑さが凝縮されている。単純な音楽仲間でも、仕事上の付き合いでもない。自分の才能を刺激してくれる競争相手であり、音楽の話を共有できる友人であり、ときには兄のように感じる存在だった。
wowakaも米津玄師を「戦友であり、敵」と語っていた実は、米津だけがwowakaをライバル視していたわけではない。
2015年7月8日に公開された音楽メディア「KAI-YOU」のkz(livetune)とwowakaの対談で、wowakaは米津玄師について具体的に言及している。
ボーカロイドで曲を発表し始めた時期も、自分自身で歌い始めた時期も近かったことから、不思議な縁を感じていたという。そのうえで、米津を尊敬し、世界の誰よりも意識している存在と説明した。
自分にとって間違いなく戦友だし、敵なんですよね(笑)。
――wowaka(KAI-YOU、2015年7月8日公開の対談より)
この発言は非常に重要だ。米津が2019年の追悼文で明かしたライバル意識と、wowakaが2015年に語っていた競争心が一致しているからだ。
二人は互いの成功を喜び合うだけの関係ではなく、相手の才能を認めているからこそ、自分も負けたくないと考えていた。尊敬と競争心が共存する関係だったのである。
【出会いの経緯】ハチとwowakaはニコニコ動画で互いを知った
米津玄師とwowakaの接点は、2009年前後のニコニコ動画にさかのぼる。
当時の米津玄師は「ハチ」という名義でVOCALOID楽曲を投稿していた。一方、wowakaも初音ミクを使用したオリジナル楽曲を発表し、独自の音楽性で注目を集めていた。
米津玄師はハチ名義で2009年から活動米津玄師の公式プロフィールによると、ハチ名義でニコニコ動画への楽曲投稿を始めたのは2009年。作詞・作曲だけでなく、イラストや映像制作も自ら担当していた。
代表作には「結ンデ開イテ羅刹ト骸」「マトリョシカ」「パンダヒーロー」などがある。2010年には『花束と水葬』『OFFICIAL ORANGE』というアルバムも発表した。
その後、2012年に本名の米津玄師名義でアルバム『diorama』をリリース。ボーカロイドを中心とした活動から、自身の声で歌うシンガーソングライターへと活動の軸を移していった。
wowakaも2009年にボカロPとして活動を開始wowakaは1987年11月4日生まれ、鹿児島県出身。KADOKAWAが公表したプロフィールによると、2009年5月11日にニコニコ動画で「グレーゾーンにて。」を公開し、ボカロPとしての活動をスタートさせた。
その後、「裏表ラバーズ」「ローリンガール」「ワールズエンド・ダンスホール」など、VOCALOIDシーンを代表する楽曲を次々と発表。高速で畳みかけるような歌詞、疾走感のあるサウンド、強烈なリズム感で独自の存在感を確立した。
投稿時期が近かったこともあり、米津はwowakaの作品を早い段階から認識していた。2019年の追悼文では、ニコニコ動画で出会った当時のwowakaについて、今まで聴いたことのない鮮烈な音楽を作る人物だったと振り返っている。
初めて直接会ったのは即売会イベント二人の交流はインターネット上だけにとどまらなかった。
米津の追悼文によると、最初に実際に顔を合わせたのは即売会のイベントだったという。お互いにシャイな性格だったため、最初から会話が弾んだわけではなかったものの、音楽について意見を交わす時間を持っていた。
ここで注目したいのは、二人の関係が最初から親友だったわけではないことだ。作品を通じて相手の才能を知り、実際に会い、音楽について語り合ううちに、徐々に距離が縮まっていった。
同じ時代のインターネット音楽文化の中で活動し、それぞれ異なる方向へ進みながらも、互いの存在を意識し続けたことが二人の友情の出発点だった。
【音楽的影響】米津玄師に衝撃を与えた「ワールズエンド・ダンスホール」
米津玄師とwowakaの関係を語るうえで、音楽的な影響は避けて通れない。
米津は2019年の追悼文で、wowakaから多大な影響を受けたことを明言している。なかでも「ワールズエンド・ダンスホール」を初めて聴いたときの衝撃は、特別な思い出として残っていた。
ワールズエンド・ダンスホールを初めて聴いた時は衝撃で飯が食えなくなった。
――米津玄師「野暮」(2019年4月10日)
これは単なる社交辞令ではない。米津が自分と同じ時代に音楽を発表していたwowakaの才能を、どれほど強烈に意識していたかを示す言葉だ。
「ワールズエンド・ダンスホール」が与えた衝撃「ワールズエンド・ダンスホール」は、wowakaの代表曲の一つ。高速の言葉の連なりと、勢いのあるビート、耳に残るメロディーが特徴的な楽曲だ。
特に印象的なのは、言葉の情報量と音楽のスピード感が一体になっている点である。歌詞をじっくり読み込むだけでなく、音として聴いたときにも強烈な印象を残す構造になっている。
こうした表現は、当時のVOCALOIDだからこそ実現できた側面もある。人間の歌唱では難しいほど速い言葉の連続や、声の限界を超えるような音域を、初音ミクという音声合成ソフトによって作品に落とし込めたからだ。
米津自身もボーカロイドを使って創作していたため、wowakaの音楽的な挑戦を単なるリスナー以上の立場から受け止めていたと考えられる。
米津玄師もwowakaの影響を公に認めていた2017年には、米津が自身のSNSでwowakaのボーカロイドシーンへの功績を高く評価する発言をしていたことが、2019年の報道でも紹介された。
米津は、wowakaが「ボカロっぽい」という概念を作り上げたと評し、自分も影響を受けた一人として最大級の敬意を示していた。wowaka本人も、この投稿に反応している。
このやり取りから分かるのは、二人の間ではライバル意識と尊敬が決して矛盾していなかったということだ。
むしろ、相手の音楽を高く評価できるからこそ、自分もさらに優れた作品を作りたいという創作意欲につながっていた。
二人の音楽性は似ていたのか両者には、VOCALOIDを活用したロックサウンド、印象的な言葉の反復、独自の世界観という共通点がある。
しかし、音楽的な個性まで同じだったわけではない。wowakaは疾走感や緊張感を前面に押し出した楽曲で存在感を示し、米津はその後、歌声、アレンジ、物語性のある歌詞などを融合させながら、独自の表現を広げていった。
共通する出発点を持ちながら、別々の方向に進んだ二人。その違いもまた、互いを刺激し合う理由になっていたと考えられる。
【年表・関係性一覧】ハチ、wowaka、ヒトリエの活動と重要な転換点
二人の関係をより正確に理解するには、それぞれのキャリアと交流の時期を並べて見ると分かりやすい。
以下は、米津玄師の公式プロフィール、wowakaの公式情報、KADOKAWAの発表、本人の追悼文、インタビュー報道を基に整理した年表である。
| 時期 | 米津玄師・ハチ | wowaka・ヒトリエ | 二人の関係・意味 |
|---|---|---|---|
| 2009年 | ハチ名義でニコニコ動画に楽曲投稿を開始 | 5月11日「グレーゾーンにて。」を公開 | 同時期にボカロPとして活動 |
| 2010年 | 『花束と水葬』『OFFICIAL ORANGE』を発表 | 「ワールズエンド・ダンスホール」などの代表曲で存在感を拡大 | 互いの音楽を意識する関係に |
| 2011年 | ハチ名義での活動を継続 | BALLOOMの立ち上げに参加。5月に『アンハッピーリフレイン』を発表 | インターネット音楽シーンで活躍 |
| 2012年 | 本名の米津玄師名義で『diorama』を発表 | ヒトリエを結成 | ボカロから自身の声による音楽表現へ転換 |
| 2015年 | ソロアーティストとして活動 | KAI-YOUの対談で米津を「戦友」「敵」と表現 | 互いを尊敬し、強く意識する関係が明らかに |
| 2017年 | ハチ名義で「砂の惑星」を発表 | 「アンノウン・マザーグース」を発表 | 双方のボカロPとしての存在感を再認識 |
| 2019年 | 4月10日に追悼文「野暮」を公開 | 4月5日に急性心不全で逝去 | 米津が親友との別れを公表 |
| 2024年 | 『wowaka 歌詞集』に寄稿 | 初投稿15周年に歌詞集が発売 | 出会いへの感謝を帯コメントに残す |
| 2026年 | 米津玄師としてソロ活動を継続 | ヒトリエが活動を継続 | 作品と交流の記録が現在も受け継がれる |
wowakaのキャリアを理解するうえで欠かせないのが、音楽レーベルBALLOOMである。
BALLOOMは2011年3月、インターネットを中心に活動する音楽家たちによって立ち上げられたレーベルだ。wowakaもその設立に参加しており、同年5月には初の全国流通盤となるアルバム『アンハッピーリフレイン』を発表した。
この作品には、wowakaがボカロPとして築き上げてきた音楽性が凝縮されている。ネット上で人気を獲得した楽曲を、インターネットの外側にも届ける重要な転換点となった。
また、2012年にはシノダ、イガラシ、ゆーまおらとともにヒトリエを結成。2014年1月にはシングル『センスレス・ワンダー』でメジャーデビューを果たした。
米津がソロアーティストとして自身の声を中心に表現を広げたのに対し、wowakaはバンドという形態を選択した。活動形態は違っても、二人がボカロPという出発点から新しい音楽表現を模索していた点は共通している。
【2019年の訃報と追悼】米津玄師が明かした親友との日々
2019年4月8日、ヒトリエの公式サイトはwowakaの訃報を発表した。
公式発表によると、wowakaは2019年4月5日に急性心不全のため亡くなった。享年31歳だった。葬儀は遺族の意向により近親者のみで執り行われた。
ヒトリエのボーカル・ギターのwowakaは、4月5日に急性心不全のため、永眠致しました。享年31歳でした。
――ヒトリエ公式発表(2019年4月8日)
突然の訃報は、音楽業界だけでなく、ニコニコ動画を中心に活動してきたボカロファンにも大きな衝撃を与えた。
米津玄師が2019年4月10日に公開した追悼文「野暮」米津玄師は4月8日にヒトリエの訃報を伝える公式投稿をリツイート。その2日後の4月10日、自身の公式サイトに「野暮」と題した文章を掲載した。
冒頭では、何も手につかず、気持ちを整理するためにも文章を書きたいという心境を明かしている。
文章の中で特に印象的なのは、二人が音楽の話だけでなく、日常生活でも深く交流していたことが分かるエピソードだ。
週2〜3回、一緒に酒を飲んでいた親友関係米津によると、二人はそれぞれボカロから離れ、自分の声で歌う活動へ移行した時期に、似た境遇にいる人間がほかにいないことへの不安を共有していた。
そのため、時折二人で飲みに行き、取り留めのない話をするようになったという。
さらに年月を重ねるにつれ、飲みに行く頻度は増えていった。米津は追悼文で、亡くなる前の時期には週に2〜3回ほど一緒に飲んでいたと明かしている。
音楽の話ばかりしていたわけでもない。フェスに一緒に出かけた際には、持っていた財布が同じデザインだったことが判明。別の雑誌対談では、色違いの同じ靴を履いていたことに気づいて二人で爆笑したという。
こうした何気ないエピソードからは、音楽家としての関係を超えた親密さが伝わってくる。
米津が語った「チルモード」と忘れられない思い出追悼文には、LAMP IN TERRENの大ちゃんを含めた3人で飲むことを「チルモード」と呼んで楽しんでいたという話も登場する。
米津は、くだらない話をするとwowakaが顔をくしゃくしゃにして笑ってくれるため、さらにくだらないことを話そうと努めていたと振り返った。
また、wowakaが酔って眠ってしまうと、タクシーに乗せるまでが一緒に飲むときの恒例だったという。眠っている姿を写真に撮りため、いつか本人に撮影時の状況を説明しながら見せようと思っていたことも明かしている。
しかし、その機会は二度と訪れなくなった。
米津の追悼文が多くの読者の心に残ったのは、著名アーティストによる形式的な追悼コメントではなく、親友を失った一人の人間の個人的な記憶が率直につづられていたからだ。
【2024年の再注目】『wowaka 歌詞集』に米津玄師が寄稿した意味
wowakaの音楽と米津玄師の関係を改めて考えるきっかけになったのが、2024年5月11日に発売された『wowaka 歌詞集』だ。
この書籍は、wowakaのボカロPとしての初投稿から15周年に合わせて刊行された。ボーカロイド楽曲からヒトリエの楽曲まで80曲以上の歌詞を収録し、未発表楽曲「NOTOK」の歌詞も掲載している。
加えて、貴重な手稿や写真、ヒトリエのメンバーによるコメントに加え、wowakaと親交の深かったアーティスト5名の寄稿文が収録された。
米津玄師が寄稿した5人のアーティストの一人に寄稿者として名前が掲載されたのは、次の5名である。
- じん
- 田淵智也(UNISON SQUARE GARDEN)
- ピノキオピー
- 堀江晶太/kemu
- 米津玄師/ハチ
米津は寄稿文だけでなく、書籍の帯にもコメントを寄せた。
wowakaさんと出会えてよかったです。
――米津玄師 ハチ
この短い言葉は、2019年の追悼文と合わせて読むことで、より深い意味を持つ。
2019年には親友を失った悲しみを長文でつづり、2024年には出会えたことへの感謝を短い言葉に込めた。どちらも米津自身が発した言葉であり、wowakaとの出会いが彼の人生や創作活動にとって大きな意味を持っていたことが伝わってくる。
『wowaka 歌詞集』の内容と基本情報KADOKAWAの公式書誌情報によると、書籍の基本情報は以下のとおりだ。
- 書名:『wowaka 歌詞集』
- 発売日:2024年5月11日
- 判型:四六判
- ページ数:272ページ
- 発売時定価:2,640円(税込)
- 収録内容:ボーカロイド楽曲・ヒトリエ楽曲など80曲以上、未発表曲「NOTOK」の歌詞
- 特別収録:作詞作曲メモ、レコーディング写真、親交の深いアーティスト5名の寄稿
この本の特徴は、単なる歌詞の再録集ではない点にある。
「るらるら」の作詞作曲メモや、『IKI』『HOWLS』のレコーディング時の写真など、楽曲が生まれた背景を知るための資料も収録されている。
特に米津の寄稿は、wowakaの音楽に影響を受けた本人が、友人としてどのような思いを抱いていたかを知る貴重な記録だ。
2026年現在のヒトリエとwowakaの音楽wowakaは亡くなったが、ヒトリエの活動は終わらなかった。
2019年4月8日の公式発表では、残されたメンバーのイガラシ、シノダ、ゆーまおが今後も音楽活動を続ける意思を表明していた。
その後もヒトリエは活動を継続し、2026年11月現在も公式サイトで新曲の配信やライブ出演などを告知している。
つまり、検索されることの多い「wowakaの現在」という疑問に対する答えは、本人は2019年に逝去している一方、彼が中心となって築いたヒトリエは現在も活動を続けている、ということになる。
現在のヒトリエの活動とwowaka本人の活動を混同しないことが大切だ。彼の残した楽曲は、バンドの歩みとともに受け継がれている。
【よくある質問】米津玄師とwowakaに関するFAQ
Q1:米津玄師とwowakaは本当に親友だったの?
A1:本当だ。2019年4月10日に公開した追悼文で、米津玄師本人がwowakaを「ライバルであり、親友であり、どこか兄のようでもあった」と表現している。亡くなる前には週2〜3回ほど一緒に飲みに行く間柄だった。
Q2:ハチとwowakaはどこで出会ったの?
A2:最初の接点はニコニコ動画だった。2009年前後にボカロPとして活動していた二人は、即売会イベントで実際に顔を合わせ、その後、音楽の話やプライベートでの交流を通じて親交を深めた。
Q3:米津玄師はwowakaから音楽的な影響を受けていた?
A3:受けていた。米津は公式追悼文でwowakaから多大な影響を受けたと明かしている。特に「ワールズエンド・ダンスホール」を初めて聴いたときの衝撃についても語っている。
Q4:wowakaの死因は何だった?
A4:ヒトリエの公式発表によると、2019年4月5日に急性心不全のため逝去した。享年31歳だった。発表された死因以外の詳しい医学的背景については公表されていない。
Q5:『wowaka 歌詞集』に米津玄師のコメントは掲載されている?
A5:掲載されている。米津玄師は寄稿文を執筆し、帯には「wowakaさんと出会えてよかったです」というコメントが掲載された。2024年5月11日発売で、80曲以上の歌詞や未発表曲「NOTOK」の歌詞なども収録されている。
Q6:wowakaは現在もヒトリエのメンバーなの?
A6:wowaka本人は2019年に逝去している。ヒトリエは残されたメンバーが活動を継続しており、2026年現在も音楽活動を行っている。
米津玄師とwowakaの関係は、同時代のボカロPという枠を超えた、深い友情と尊敬、そして健全な競争心によって結ばれたものだった。
二人は2009年前後にニコニコ動画で互いの存在を知り、即売会イベントで顔を合わせた。その後、ボカロPからそれぞれソロアーティストとバンドマンへと活動の方向性を変えながらも、交流を続けた。
米津はwowakaの音楽に衝撃を受け、彼をライバルとして意識していた。一方のwowakaも、米津を誰よりも意識する戦友であり、敵だと語っていた。互いの才能を認めていたからこそ成立した関係だった。
2019年4月5日のwowakaの急逝は、その関係に突然の終わりをもたらした。しかし、米津が残した追悼文「野暮」には、二人が過ごした時間や、何気ない日常の思い出が今も鮮明に刻まれている。
そして2024年の『wowaka 歌詞集』への寄稿と帯コメントは、二人の出会いが米津にとって今も大切な記憶であることを示した。
【プロの結論】二人の関係を知るなら作品と本人の言葉をセットで見る米津玄師とwowakaの関係を理解するうえで、特に注目したいのは次の3つの記録だ。
- 2015年のwowakaの対談:米津を尊敬し、戦友であり敵でもあると語った言葉。
- 2019年の米津の追悼文:親友との交流や、音楽家としての尊敬、別れの悲しみを記した文章。
- 2024年の『wowaka 歌詞集』:「出会えてよかった」という感謝を形にした寄稿と帯コメント。
この3つを時系列で読み解くと、二人の関係は単なる美談ではないことが分かる。互いの才能に刺激を受け、時には負けたくないと考え、音楽の話をし、日常を共有してきた二人の実像が浮かび上がる。
wowakaが生み出した「ワールズエンド・ダンスホール」や「アンノウン・マザーグース」、そしてヒトリエの楽曲は、2026年現在も聴き継がれている。米津玄師の作品とともに、二人が活動した時代のVOCALOID文化を知るための重要な手がかりでもある。
二人の関係を知る最も確かな方法は、噂や第三者の想像ではなく、本人たちが残した言葉と音楽に触れることだ。そこには、ライバルでありながら誰よりも互いを認め合っていた、二人だけの友情が残されている。