基本プロフィール・2026年11月時点
山本和行は1949年6月30日生まれ、広島県出身の元プロ野球投手です。左投左打で、身長174センチ、体重80キロ。2026年11月現在は77歳です。
日本野球機構(NPB)の選手プロフィールによると、広島商業高校から亜細亜大学へ進学し、1971年のドラフト会議で阪神タイガースから1位指名を受けました。1972年にプロ入りし、1988年まで17年間にわたって阪神でプレーしています。
プロフィール一覧
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 山本和行 |
| 生年月日 | 1949年6月30日 |
| 2026年の年齢 | 77歳 |
| 出身地 | 広島県 |
| 投打 | 左投左打 |
| 身長・体重 | 174cm・80kg |
| 出身高校 | 広島商業高校 |
| 出身大学 | 亜細亜大学 |
| ドラフト | 1971年・阪神1位 |
| プロ入り | 1972年 |
| 引退 | 1988年 |
| 所属球団 | 阪神タイガース |
山本の野球人生は広島から始まりました。
1966年夏、第48回全国高校野球選手権大会に広島商業の選手として出場。1回戦で群馬県代表の桐生高校と対戦し、1対3で敗れています。
3年生の夏は広島県大会決勝まで進出しましたが、広陵高校に敗れ、甲子園出場はなりませんでした。
その後、亜細亜大学へ進学。大学2年生からエースとして活躍し、1971年春季リーグでは東都大学野球リーグ優勝に貢献しました。同年の全日本大学野球選手権大会でも亜細亜大学を初優勝に導いています。
大学時代の成績は、リーグ通算63試合登板、33勝26敗、防御率1.83、351奪三振。大学野球でも際立った実績を残しました。
プロ入り後に武器となったフォークボール山本の投球を語るうえで欠かせないのがフォークボールです。
本人が2025年のBSフジ「プロ野球レジェン堂」で語ったところによると、フォークボールを覚えたのは亜細亜大学2年生のころでした。
高校時代は主にストレートとカーブを投げていましたが、大学でフォークボールを身につけたことが、その後のプロ生活を支える武器になりました。
また、左腕投手としての投球技術だけでなく、相手打者の考え方や配球への理解を深める研究熱心な一面もありました。
【阪神タイガースでの実績】通算116勝・130セーブはなぜすごいのか

山本和行の最大の特徴は、先発投手とリリーフ投手の両方で結果を残したことです。
一般的に先発投手は長いイニングを投げて勝利を目指し、抑え投手は試合終盤のリードを守る役割を担います。
求められる能力や準備の仕方が異なる2つの役割を高い水準で経験したことが、山本のキャリアを特別なものにしています。
1980年・1981年は先発投手として2年連続2桁勝利1970年代にはリリーフとして起用される時期もありましたが、1978年から先発投手に転向しました。
特に1980年は35試合に登板して15勝11敗、防御率3.26を記録。1981年も31試合で12勝12敗、防御率3.30と、2年連続で2桁勝利を挙げています。
この時期の実績からも、山本が単なる救援専門の投手ではなかったことが分かります。
1982年と1984年に最優秀救援投手を受賞1982年、安藤統男監督のもとで再びリリーフに転向しました。
本人の2025年のインタビューによると、当初は先発として投げることを希望しており、リリーフへの転向を何度も断ったそうです。しかし、チームのために役割を引き受けました。
その結果、1982年には次の成績を残しています。
- 登板:63試合
- 勝利:15勝
- 敗戦:8敗
- セーブ:26
- 防御率:2.41
- セーブポイント:40
15勝と26セーブを同時に記録し、初の最優秀救援投手を受賞しました。
さらに1984年には10勝8敗24セーブ、34セーブポイントを記録し、2度目の最優秀救援投手に輝きます。
野球殿堂博物館も、山本を阪神の初代セーブ王として紹介しています。
通算116勝・130セーブの記録NPBの個人年度別成績に掲載されている山本の通算投手成績は次のとおりです。
| 記録項目 | 通算成績 |
|---|---|
| 登板試合 | 700試合 |
| 勝利 | 116勝 |
| 敗戦 | 106敗 |
| セーブ | 130 |
| 投球回 | 1817回2/3 |
| 奪三振 | 1252 |
| 完投 | 40 |
| 完封勝利 | 6 |
| 防御率 | 3.66 |
| 勝率 | .523 |
特筆すべきは、116勝と130セーブを同じ投手が記録していることです。
リリーフ投手はセーブを積み重ねやすい一方、先発投手のように勝利数を伸ばす機会は限られます。逆に先発中心の投手は、通算セーブ数が大きく伸びにくい傾向があります。
山本は先発と抑えの両方を経験したことで、この2つの数字を高い水準まで積み上げました。
1985年には史上2人目となる通算100勝・100セーブも達成しています。5月20日の巨人戦で100セーブ、6月5日の巨人戦で100勝を記録しました。
なお、通算敗戦数については、阪神タイガースの80周年記念サイトに103敗という記載がある一方、NPBの個人年度別成績では106敗となっています。ここでは通算記録の基準としてNPBの公式個人記録を採用しています。勝利数・セーブ数・登板数などは両資料で一致しています。
【1985年の日本シリーズ】アキレス腱断裂で失ったマウンドと日本一の記憶
山本の野球人生で最も大きな転機となったのが、1985年9月4日のアキレス腱断裂です。
当時の阪神は吉田義男監督のもとで快進撃を続け、21年ぶりのセ・リーグ優勝を目指していました。
山本も重要な救援投手としてチームを支えており、中西清起とのダブルストッパー体制が採用されていました。
しかし、優勝争いの大詰めで突然の悲劇が起こります。
1985年9月4日、ナゴヤ球場で左足アキレス腱を断裂1985年9月4日、中日戦を控えたナゴヤ球場での練習中、山本は左足のアキレス腱を断裂しました。
2025年のFNNプライムオンラインのインタビューで、山本本人は夏前から足に疲れを感じていたことや、走っている最中に断裂したことを振り返っています。
本人によれば、負傷後は担当医から復帰まで1年かかると告げられたといいます。
翌日の報道では現役引退を心配する内容も出ました。
しかし、そうした報道が本人の闘志を刺激しました。もう一度マウンドに立つという目標を掲げ、ギプスを着けながらリハビリに取り組んだのです。
阪神は日本一に輝いたが、山本は登板できなかった1985年の阪神は、強力打線と救援陣の活躍でリーグ優勝を達成しました。
その後、日本シリーズでも西武ライオンズを破り、球団史上初の日本一に輝きます。
しかし、山本はアキレス腱断裂の影響で日本シリーズのマウンドに立つことができませんでした。
ダブルストッパーの一角だった山本が離脱したことで、中西清起が救援の中心を担うことになります。
山本自身も、2025年のFNNのインタビューで、負傷後は中西が一人で抑えを担う形になり、チームの結束にもつながったという趣旨を語っています。
日本シリーズで山本が印象的な記憶として残しているのは、登板ではなく優勝後の胴上げです。
本人の証言によると、日本シリーズの西武球場でユニフォーム姿のままチームメートに胴上げされました。
つまり、1985年の日本一には貢献したものの、日本シリーズ自体には投手として出場できなかったというのが正確な経緯です。
このエピソードは、山本のキャリアを語る際に欠かせません。
優勝の喜びと、選手としてマウンドに立てなかった悔しさ。その両方を経験したシーズンだったからです。
【1986年の現役復帰】約7か月でマウンドに戻った不屈の左腕
1985年の大けがから、山本は驚異的な回復を見せます。
アキレス腱断裂後、本人は復帰に向けてリハビリを重ねました。そして翌1986年4月4日、開幕戦の大洋ホエールズ戦で一軍のマウンドに戻ります。
1986年4月4日、開幕戦で復帰登板FNNの報道によると、山本は開幕戦で3番手投手として登板し、1イニングを1安打に抑えました。
1985年9月4日の負傷から約7か月後の復帰です。
本人はインタビューで、リハビリに取り組んだ期間を振り返り、半年ほどで回復したと説明しています。
加えて、1986年の成績は次のようになりました。
| 項目 | 1986年の成績 |
|---|---|
| 登板 | 49試合 |
| 勝利 | 11勝 |
| 敗戦 | 3敗 |
| セーブ | 15 |
| 奪三振 | 80 |
| 防御率 | 1.67 |
防御率1.67は非常に優秀な数字です。
大けがから復帰しただけでなく、11勝15セーブという結果を残したことは、山本の投手としての能力と経験を示しています。
現役引退は1988年、通算700試合登板その後も阪神でプレーを続けましたが、1987年、1988年と登板数は減少。
1988年にはコーチ兼任となり、同年限りで現役を引退しました。
プロ生活17年間で700試合に登板した記録は、当時の阪神球団最多記録でした。この球団記録は2018年9月4日に藤川球児が更新しています。
引退後は解説者・広島の投手コーチとして活動現役引退後の山本は、野球界から完全に離れたわけではありません。
亜細亜大学の公式スポーツサイトに掲載された経歴によると、引退後の主な活動は次のとおりです。
- 1989~1991年:朝日放送・サンテレビ解説者
- 1992~1995年:広島東洋カープの投手コーチ
- 1996~1998年:テレビ大阪解説者
- 1999年以降:NHK解説者として紹介
広島では一軍・二軍の投手コーチを務め、選手の育成にも携わりました。
選手としての経験だけでなく、指導者や解説者としても野球に関わってきた人物です。
【山本和行をめぐる人物・出来事】年表と関係者を一覧で整理
山本のキャリアを理解するには、本人の記録だけでなく、阪神の監督やチームメート、後輩投手との関係も重要です。
以下に、主な関係者とキャリアの転換点を整理しました。
| 人物・出来事 | 山本との関係 | 主な内容 |
|---|---|---|
| 広島商業 | 出身高校 | 1966年夏の甲子園に出場 |
| 亜細亜大学 | 出身大学 | 大学選手権初優勝に貢献 |
| 安藤統男 | 阪神監督 | 1982年にリリーフ転向を要請 |
| 吉田義男 | 阪神監督 | 1985年のダブルストッパー体制を採用 |
| 中西清起 | 阪神のチームメート | 1985年にダブルストッパーを組む |
| 1985年の日本シリーズ | キャリアの転換点 | けがで登板できなかったが、優勝後に胴上げされた |
| 石井大智 | 阪神の後輩投手 | 2026年にアキレス腱断裂後のリハビリについて助言 |
| 甲子園歴史館 | 功績を紹介 | 2026年のリリーフ企画展で山本のユニフォームを展示 |
| 年 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1949年 | 広島県で誕生 |
| 1966年 | 広島商業で夏の甲子園出場 |
| 1971年 | 亜細亜大学で大学選手権優勝。阪神ドラフト1位 |
| 1972年 | 阪神でプロデビュー |
| 1977年 | リーグ最多セーブを記録 |
| 1980年 | 先発として15勝 |
| 1982年 | 最優秀救援投手を初受賞 |
| 1984年 | 2度目の最優秀救援投手 |
| 1985年 | 通算100勝・100セーブ達成。アキレス腱断裂 |
| 1986年 | 開幕戦で復帰。11勝15セーブ |
| 1988年 | 現役引退 |
| 1989年以降 | 解説者・指導者として活動 |
| 2025年 | BSフジ・FNNの番組企画で現役時代を振り返る |
| 2026年 | 石井大智へのリハビリ助言、甲子園歴史館で功績を紹介 |
この年表から分かるのは、山本が一時的な活躍で終わった選手ではないということです。
先発とリリーフの役割変更、2度のタイトル獲得、大けがからの復帰、そして引退後の指導者・解説者としての活動。複数の転換点を経験しながら、長期間にわたって野球界に関わってきました。
【山本和行の現在】2026年は石井大智への助言と甲子園歴史館での特集が話題
2026年現在、山本和行は77歳です。
現役を退いてから長い年月が経過していますが、阪神OBとしての存在感は今も残っています。
2025年にはBSフジの「プロ野球レジェン堂」に出演し、阪神時代のエピソードやフォークボールの投球術、1985年の日本一、メジャーリーグ挑戦を考えた過去などを語りました。
そして2026年には、過去の大けがの経験が再び注目されました。
2026年2月、石井大智のアキレス腱断裂を受けて助言2026年2月、阪神の石井大智が左足のアキレス腱を断裂し、縫合手術を受けたことが球団から発表されました。
石井は侍ジャパンにも選出されていた投手で、阪神にとっても大きな痛手となる負傷でした。
このニュースを受け、同じアキレス腱断裂を経験している山本が、2026年2月22日付のスポーツニッポンの取材で自身の経験を語りました。
山本が後輩に伝えたリハビリの要点は、次の3つです。
大事にしすぎない
必要以上に慎重になりすぎず、回復の段階に応じて体を動かすという考え方。
じっとしておかない
歩けるようになってからは、ゴルフなども取り入れて体を動かした自身の経験を紹介。
前向きな気持ちを持つ
長いリハビリの期間に気持ちを落ち込ませないことも大切だと伝えた。
山本は、自身が歩けるようになってから好きなゴルフを再開し、アップダウンのある場所も歩いていたことを明かしています。
また、復帰後は患部を冷やさないことが大切だったという経験も語りました。
ただし、これらは山本自身の経験に基づく助言です。アキレス腱断裂の治療や競技復帰は、手術内容や回復状態によって異なるため、個々の選手のリハビリは医療スタッフの判断に従う必要があります。
注目したいのは、山本が単に昔のけがを振り返ったのではなく、実際に同じけがを負った後輩に自身の経験を伝えたことです。
2026年4~7月、甲子園歴史館の企画展「リリーフ」で紹介2026年3月27日、阪神電気鉄道は甲子園歴史館で阪神タイガース企画展「リリーフ」を開催すると発表しました。
開催期間は2026年4月7日から7月26日までです。
この企画展では、山本和行、中西清起、藤川球児、久保田智之ら歴代の名リリーフ投手に加え、岩崎優、石井大智、及川雅貴ら現役投手も取り上げられました。
主な展示品には、次のものが含まれています。
- 1988年・山本和行のビジターユニフォーム
- 2011年・藤川球児の最多セーブ投手賞トロフィー
- 2014年・呉昇桓の日韓通算300セーブ達成時のウイニングボール
- 2025年・石井大智の実使用グローブ
- 2025年・及川雅貴の実使用グローブ
この展示は、リリーフ投手の歴史を振り返る企画でした。山本はその歴史を築いたOBの一人として紹介されています。
2026年11月現在、この企画展はすでに終了しています。
ただし、山本の1988年のユニフォームが展示対象となったことは、阪神における彼の功績が現在も球団の歴史の一部として評価されていることを示しています。
【プロの結論】山本和行の本当の価値は先発と抑えを両立したこと山本の記録を評価するとき、単純に116勝や130セーブという数字だけを見るのでは十分ではありません。
重要なのは、異なる役割を担いながら、17年間にわたって阪神の投手陣を支え続けたことです。
先発として15勝を挙げた1980年、リリーフとして15勝26セーブを記録した1982年、そしてアキレス腱断裂から復帰して防御率1.67を残した1986年。
これらは、それぞれ違った能力を発揮したシーズンでした。
加えて、2026年に石井大智へ自身のリハビリ経験を伝えたことからも、山本の価値は現役時代の記録だけにとどまらないと分かります。
山本和行は、阪神の歴史に残る名リリーフ投手であると同時に、先発と救援の両方で結果を残した万能型の左腕だったのです。
【山本和行に関するよくある質問(FAQ)】
Q1:山本和行の現在の年齢は何歳ですか?
A1:1949年6月30日生まれです。2026年11月現在は77歳です。
Q2:山本和行の通算成績はどれくらいですか?
A2:NPBの公式個人記録では、700試合登板、116勝106敗、130セーブ、防御率3.66です。奪三振は1252を記録しています。
Q3:山本和行は最優秀救援投手を何回受賞しましたか?
A3:1982年と1984年の2回です。1982年には15勝26セーブ、1984年には10勝24セーブを記録しました。
Q4:山本和行は1985年の日本シリーズに出場しましたか?
A4:左足アキレス腱断裂の影響で、投手として日本シリーズに登板できませんでした。ただし、阪神の日本一が決まった後、西武球場でチームメートに胴上げされています。
Q5:山本和行はいつ現役復帰しましたか?
A5:1986年4月4日の開幕戦、大洋ホエールズ戦です。約7か月前のアキレス腱断裂から復帰し、その年は11勝15セーブ、防御率1.67を記録しました。
Q6:山本和行と石井大智にはどのような関係がありますか?
A6:同じ阪神タイガースに関わる先輩・後輩の関係です。2026年2月、石井が左足アキレス腱断裂の手術を受けた際、山本は自身の経験をもとにリハビリの心構えを伝えました。
Q7:山本和行は引退後、何をしていましたか?
A7:朝日放送・サンテレビの解説者、広島東洋カープの投手コーチ、テレビ大阪やNHKの解説者などを歴任しました。2025年にも野球番組で現役時代の経験を語っています。
山本和行は、1972年から1988年まで阪神タイガースでプレーし、通算116勝・130セーブ・700試合登板という輝かしい成績を残しました。
特に注目すべき実績は次の5つです。
1. 広島商業・亜細亜大学を経て阪神のドラフト1位で入団。
2. 1982年・1984年に最優秀救援投手を受賞。
3. 1985年に史上2人目の通算100勝・100セーブを達成。
4. アキレス腱断裂から約7か月で現役復帰し、1986年に11勝15セーブ、防御率1.67を記録。
5. 2026年には石井大智へのリハビリ助言や甲子園歴史館の企画展を通じて、阪神の歴史に名を残すOBとして再び注目された。
山本の魅力は、単に優秀な数字を残したことだけではありません。
大けがによって選手生命を脅かされながらも、再びマウンドに戻り、最後までプロ野球選手としての役割を果たしたことにあります。
1985年の日本一を支えた功績、1986年の復活、そして2026年に後輩へ経験を伝えた姿。その一連の歩みこそ、山本和行が阪神タイガースのレジェンドとして語り継がれる理由です。